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How I Built This with Guy Raz · 2026年6月2日

UGG:ブライアン・スミス。ひらめきとサーファー、そして500ドルが生んだ伝説のシープスキンフットウェア企業

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この記事でわかること
  • ブライアン・スミスとUGGの誕生:サーファー、500ドル、そして執念が生んだ25億ドルブランド オーストラリアの会計士だったブライアン・スミスが、1978年にカリフォルニ...
  • [0:00] 会計士からサーファー起業家へ:人生を変えた一曲 ブライアン・スミスは第二次世界大戦直後にオーストラリアのキャンベラで生まれた。幼い頃からサーフィンに親しみ、...
  • その数週間後、ブライアンはサーフボードを抱えてロサンゼルスに降り立った。1978年のロサンゼルスは家賃が月200ドルと安く、カリフォルニアはトレンドの発信地だった。彼の当...
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How I Built This with Guy Raz / Guy Raz | Wondery

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ブライアン・スミスとUGGの誕生:サーファー、500ドル、そして執念が生んだ25億ドルブランド

オーストラリアの会計士だったブライアン・スミスが、1978年にカリフォルニアで見つけた「羊皮ブーツ」というアイデアを、世界的なアイコンブランドに育て上げるまでの17年にわたる物語。このエピソードは、製品への確信と市場の無理解の狭間で何度も破綻しかけながらも、決して諦めなかった起業家の執念、資金調達の失敗から学んだ教訓、そして「製品が悪いのではなく、自分が正しい方法を見つけていないだけだ」というマインドセットの重要性を描き出す。ホストのガイ・ラズがブライアンから引き出すのは、単なる成功譚ではなく、這いつくばってでも前に進み続けた人間の生々しい物語である。

0:00会計士からサーファー起業家へ:人生を変えた一曲

ブライアン・スミスは第二次世界大戦直後にオーストラリアのキャンベラで生まれた。幼い頃からサーフィンに親しみ、安定を求めて会計士の道に進んだが、10年が経ったある日、車のラジオから流れてきたピンク・フロイドの「Time」という曲が彼の人生を一変させる。「そしてある日、10年が過ぎ去ったことに気づく。誰も君に走る時を教えなかった。スタートの合図を聞き逃したんだ」という歌詞を聴いた瞬間、全身に鳥肌が立ち、「これは自分に語りかけている」と確信したという。友人が会計事務所のパートナーになっていく中、自分は「その場で10年間走り続けていただけ」だと悟ったのだ。

その数週間後、ブライアンはサーフボードを抱えてロサンゼルスに降り立った。1978年のロサンゼルスは家賃が月200ドルと安く、カリフォルニアはトレンドの発信地だった。彼の当初の計画は、カリフォルニアで何か面白い製品やアイデアを見つけてオーストラリアに持ち帰ることだった。しかし、サンタモニカの家でサーフィン雑誌「Surfer」を読んでいたとき、暖炉の前で白いブーツを履いた男女の写真が目に飛び込んできた。それがオーストラリアでは誰もが知っている「Uggブーツ」だった。

オーストラリアでは「Ugg」はブランド名ではなく、羊皮製のブーツを指す一般名称だった。どの町にもミシンを持った人がいて、それぞれが独自のスペル(UG、UGH、UGHSなど)でUggブーツを作っていた。ブライアンは直感的に「これは究極のノーブレイナーだ」と確信する。オーストラリア人の2人に1人が何らかの羊皮製フットウェアを持っているのに、アメリカには存在しない。彼は友人ダグと500ドルを出し合い、オーストラリアのメーカー「カントリーレザー」のジョージ・バーチャーに連絡を取り、6足のサンプルを注文した。

09:51最初の挫折:ゼロ売上からの再起

ダグが南カリフォルニア中の靴店を回った結果は惨憺たるものだった。150枚の名刺を集めたものの、注文はゼロ。「カリフォルニアで羊皮のブーツを売るなんて正気の沙汰じゃない」と笑われたのだ。しかしブライアンは、オーストラリアとカリフォルニアの気候がほぼ同じであることから、その理由は気候ではないと直感する。彼らは戦略を変更し、サーフショップにターゲットを絞った。

ブライアン自身がサンタモニカの「コン・サーフボード」にサンプルを持ち込んだとき、店主の反応は「なんてこった、Uggブーツだ!友達みんな持ってるよ。君は大金持ちになるぞ!」というものだった。サーフショップでの反応は軒並み好意的で、ブライアンとダグは「即座に億万長者だ」と確信した。しかし、彼らは注文を取るという基本的なステップを踏んでいなかった。後日、再び店を訪れて注文を取ろうとすると、店主は「君は絶対成功するよ。でも、うちでは売れないんだ。サーフボードとトランクスとビーチサンダルしか扱ってないからね」と言う。同じことが60店舗以上で繰り返された。

最初の年の売上はわずか28足、1,000ドルだった。ブライアンは470足以上の在庫をサンタモニカの家の3寝室に山積みにした。ダグはビデオビジネスに転身し、ブライアンはフリーマーケットやストリートフェアで売り歩き、最終的にはマリブの駐車場でバンのドアを開けて販売するようになった。彼は夏の間、マリーナ・デル・レイでボートの塗装剥がしやベバリーヒルズの建設現場で働いて生計を立てながら、秋冬になるとUggの販売に戻るという季節労働を繰り返した。

21:10「製品のせいじゃない」という信念とマーケティングの転機

ブライアンを支えたのは、「オーストラリア人の2人に1人が羊皮ブーツを持っている。つまり製品に問題があるわけではない。問題は自分にある」という確固たる信念だった。この「製品のせいじゃない、自分が正しい方法を見つけていないだけだ」というマントラが、彼を10年以上にわたって諦めさせなかった。

1980年代初頭、ブライアンはサーフィン雑誌に広告を出し始めた。当時のサーフィン雑誌は前金を要求しなかったため、彼は広告費を後払いにするギャンブルに出た。しかし、美しいモデルをビーチで撮影した広告を出しても、売上は年間3万ドルから4万5千ドル程度と伸び悩んだ。転機は、サンディエゴのオーシャンビーチにあるサーフショップでビールを飲んでいたときに訪れる。

ブライアンが店主に広告の効果について愚痴をこぼすと、店主は店の奥から12〜13歳の「グロミー」(若いサーファー)を数人呼び出し、「お前たち、Uggsについてどう思う?」と尋ねた。彼らの答えは「ああ、Uggsか。あれは偽物だよ。あの広告のモデル、サーフィンできないじゃん」というものだった。ブライアンはその瞬間、自分の広告が効果がないどころか、逆に顧客を遠ざけていたことを悟る。

彼はすぐに、元ワールドサーフチャンピオンのピート・タウンエンドに連絡を取り、プロになりたての若手サーファー、マイク・パーソンズとテッド・ロビンソンをブーツ代だけで雇い、自分でキャノンのカメラを持ってブラックスビーチやトレッスルズでサーフィン写真を撮影した。この「本物のサーファー」を使った広告に切り替えた瞬間、年間売上は5万ドルから20万ドルへと跳ね上がった。ブライアンはこの経験から、「消費者がなりたいと思うイメージを提供すること」の重要性を学んだ。

28:32商標戦争と資金調達の悪循環

ブライアンは創業当初、Uggという名称の商標調査を600ドルかけて行い、アメリカでの商標登録に成功していた。しかし、オレゴン州で同じくUggブーツ(UGH Sと表記)を製造・販売する女性から「商標権侵害だ」と訴えられる。彼女はブライアンより後にアメリカ市場に参入していたため、ブライアンは法的には優位だったが、訴訟費用を賄う資金がなかった。

この訴訟問題は10年に及ぶ長い闘いとなる。ブライアンは一度は「ジャッカルー」(オーストラリアのカウボーイの意)への改名も検討したが、自身がスポンサーをしていたUggサーフチームの若者たちが「そんなダサい名前は絶対に嫌だ」と猛反対したことで、戦う決意を固める。最終的に1986年、両者は「Uggはオーストラリア製、UGHSはアメリカ製」と明記する条件で和解する。ブライアンの弁護士は「これで市場で勝負しろ。彼女を市場で打ち負かせ」と助言した。

しかし、この間も資金調達の問題は深刻だった。ブライアンは会計士としての経験はあったが、「会計」と「ファイナンス」は別物だと痛感する。会計は過去の数字を整理することだが、ファイナンスは将来の資金需要を予測することだ。売上が増えれば増えるほど、在庫を仕入れるための資金が必要になり、キャッシュフローは悪化する。「100万ドル売ったから破産した。じゃあ200万ドル売れば大丈夫だろう」と考えても、実際には2倍の赤字になるという悪循環に陥っていた。

彼は毎年9月から10月の繁忙期直前に、資金調達のための交渉を強いられた。この時期は注文は山のようにあるが製品を仕入れる資金がないという最悪の交渉ポジションであり、結果的に不利な条件での資本受け入れを繰り返すことになる。最初の投資家から2万ドルを調達した後、メインフレーム解体事業で知り合ったジョン・ブーサーにラインオブクレジットを提供してもらう代わりに会社の50%を譲渡。その後、スキー業界のセールスレップだったポール・バスマンの紹介で出会ったニール・フィアリングら3人の投資家に会社を買収されるが、ブライアンはそれを「新しいパートナーができた」と誤解していた。

45:15這いつくばった夜と奇跡の復活

1988年、ブライアンは人生で最も暗い時期を迎える。投資家のニールがモトクロスレース中に心臓発作で急死し、会社はニールの未亡人デラの所有となる。ブライアンは株式を取り戻す契約の直前だったため、再び無一文の従業員となった。彼はデラに「1年間は会社を立て直すために働く」と約束するが、帳簿は混乱し、8万7千ドルの赤字が判明する。

そんなある夜、ブライアンは妻ローラとテレビを見ていた後、床の上でうつ伏せになり、両手両膝をついて寝室に向かって這い始めた。それを見た普段は物静かなローラが「今すぐ立ち上がって、男らしく歩いてベッドに行きなさい」と言った。その言葉で我に返ったブライアンは「人生にはこのクソみたいな羊皮ブーツ会社よりずっと大切なものがある」と気づき、会社を畳む決意をする。

しかし、ここでまた奇跡が起きる。ブライアンは取引先のタンナリー(皮なめし工場)のゴードン・ジャクソンに電話し、「会社を閉める」と伝えた。30分後、ゴードンから電話がかかってきて「ジョージ(カントリーレザー)なんかクソ食らえだ。必要なブーツは全部俺が用意する」と言ってきたのだ。握手も契約もないまま、ゴードンはパターンを送るよう指示し、自社工場をフル稼働させて複数のメーカーに生産を委託。3週間後には最初の2千足が到着し、翌週には5千足が届いた。さらに、ニールの生命保険会社トランスアメリカが20万ドルの和解金を支払うことになり、ブライアンはその資金でデラへの借金を返済し、100%のオーナーシップを取り戻した。

51:59「6足在庫計画」とセレブリティ戦略

ブライアンが営業の現場で編み出した最も効果的な戦略が「シックス・ペア・ストッキング・プラン」だった。これは、小売店が6足の在庫を置くことを条件に、店長に1足を無料で提供するというものだ。このアイデアは、あるサーフショップで顧客が店員に「このブーツは暑くないの?」「汚れたらどうするの?」と質問しても、店員が答えられないのを見たことから生まれた。

無料のブーツをもらった店長が実際に履くことで、顧客からの質問に「すごくいいよ。今履いてるんだ。通気性があるから暑くないし、洗えるんだ」と実体験をもとに答えられるようになる。この「検証者」の存在が購入率を劇的に向上させた。ブライアンは「新規店舗を開くたびに1足のブーツを失うが、その投資はビジネスの軌道を永遠に変えた」と語る。

1990年代初頭、ブライアンはハリウッドのスタイリストに無料でブーツを送るキャンペーンを開始する。スタイリストの名簿を見つけ、400人が応募してきた。その結果、ピープル誌やUS誌にセレブリティがUggを履いている写真が掲載され始める。転機となったのは、USAトゥデイのファッション編集者との面談だった。わずか5分のプレゼンで、ブライアンはパメラ・アンダーソンが『ベイウォッチ』のセットで赤い水着に白いUggブーツを履いている写真を見せた。翌日、USAトゥデイのライフスタイル面にその写真が掲載され、羊皮とシアリング(羊の毛皮)のファッション特集が組まれた。

1:11:28ラッシュ・リンボー論争とデッカーズへの売却

1994年、ブライアンのパートナーたちは当時最大のラジオ番組だったラッシュ・リンボーのショーに50万ドル(当時の売上の約5%)を投じる広告キャンペーンを強行する。ブライアンは「彼はファッションアイコンではない。極右で分極化した人物だ。我々が何年もかけて築いてきたカジュアルコンフォートのイメージを損なう」と強く反対したが、パートナー会議で多数決で負けた。実際、このキャンペーンはスナップルのような爆発的な効果は生まず、売上は前年の900万ドルから1,100万ドルへの微増にとどまった。ブライアンは「優れたファッショニスタの顧客を、製品を一度も見たことのない人々に置き換えただけだ」と振り返る。

1995年、ブライアンはアトランタの空港の手荷物受取所で偶然、旧友のダグ・オットーと再会する。ダグはかつて車のトランクからサンダルを売っていた起業家で、後にTevaサンダルのライセンスを取得し、デッカーズ・コーポレーションをIPOに導いていた。ブライアンは「もしやるなら今だ」と持ちかけ、その日の午後には両社の会計士が買収のデューデリジェンスを開始した。デッカーズは夏に強いTevaと冬に強いUggの組み合わせによる相乗効果を期待し、約1,500万ドルでUggを買収する。

買収後、デッカーズはニューヨークのハイファッション業界出身のコニー・リッシュウェインを起用し、高級女性ファッション誌への広告展開を開始。さらにオプラ・ウィンフリーがスタッフ用にUggを注文したことと相まって、ブランドは爆発的に成長する。ブライアンは「もし私がオーナーだった頃にオプラがUggを紹介していたら、需要に応える資本がなくて会社は潰れていただろう」と語る。デッカーズはその後、トム・ブレイディとのエンドースメント契約、ジミー・チュウとのコラボレーション、ニューヨークや東京への直営店出店などを通じて、Uggを世界的なファッションアイコンに育て上げた。現在、Uggの年間売上は25億ドルを超える。

まとめ

このエピソードが聴き手に残すのは、「製品への確信」と「執念」の力だ。ブライアン・スミスは17年間、何度も破産の淵を彷徨い、這いつくばり、這い上がり続けた。彼の原動力は「オーストラリア人の2人に1人が持っている製品が悪いはずがない」という単純な確信だった。しかし同時に、この物語は「良い製品」だけでは成功しないという厳しい現実も描き出す。適切なマーケティング(本物のサーファーを使うこと)、流通戦略(6足在庫計画)、資金調達のタイミング、そして最終的には「自分の赤ちゃんを他人に託す勇気」がなければ、Uggは永遠にマリブの駐車場で売られるだけのブーツだったかもしれない。ブライアンが「あなたは赤ん坊を産むことはできても、大人を産むことはできない」と語るように、起業家の役割は製品を生み出し、幼年期を生き延びさせ、成長の準備ができた時に適切な育て手に託すことなのかもしれない。

要点

  • ブライアン・スミスは1978年、オーストラリアの会計士を辞め、500ドルとサーフボードだけを持ってカリフォルニアに渡り、羊皮ブーツ「Ugg」のアメリカ展開を始めた
  • 最初の年は28足しか売れず、ブライアンは建設現場やゴルフ場のグリーンキーパーなどで生計を立てながら、秋冬だけUggの販売に集中する季節労働を繰り返した
  • 美しいモデルを使った広告が逆効果だと気づき、本物のサーファーを使った広告に切り替えたことで売上が5万ドルから20万ドルに急増した
  • 「6足在庫計画」で店長に無料のブーツを提供し、実体験に基づく販売を可能にしたことが流通拡大の決め手となった
  • 資金調達のタイミングを誤り、毎年繁忙期直前に不利な条件での資本受け入れを強いられ、会社の支配権を2度失った
  • 1995年、空港での偶然の再会をきっかけにデッカーズ社に約1,500万ドルで売却。デッカーズはその後、Uggを25億ドルブランドに成長させた
  • ブライアンは「製品のせいじゃない、自分が正しい方法を見つけていないだけだ」というマントラで17年間の困難を乗り越えた
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