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How I Built This with Guy Raz · 2026年6月17日

Build-A-Bear:マキシン・クラーク。元靴業界幹部がぬいぐるみ帝国を立ち上げる

AI generated article / ja / study
この記事でわかること
  • ビルド・ア・ベア:靴業界のエグゼクティブがぬいぐるみ帝国を築くまで マキシン・クラークは、フォーチュン500企業の子会社であるペイレス・シューズの社長という輝かしいキ...
  • [05:52] エレノア・ルーズベルトのもとで働いた母親 マキシン・クラークは1950年代から60年代にかけてフロリダ州コーラルゲーブルズで育った。父親は電気技師、母...
  • マキシンが16歳のとき、母親は彼女を連れてマイアミからアラバマ州セルマ行きのバスに乗り、公民権運動のデモ行進に参加した。「私は列の後ろの方にいました。それが自分の人生...
こんな人向け

英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。

出典Podcast

How I Built This with Guy Raz / Guy Raz | Wondery

要点
  1. マキシン・クラークはフォーチュン500企業の子会社ペイレス・シューズの社長を辞し、1997年にセントルイスでビルド・ア・ベア1号店を開業。初年度売上は200万ドルと、平均的なモール新規店舗の3〜4倍を達成した。
  2. 起業のきっかけは、友人の子どもケイティがビーニー・ベイビーを買えずに「こんなの簡単に作れるよ」と言った一言。マキシンはそれを「自分でぬいぐるみを作れる店」というビジネスアイデアに変換した。
  3. 店舗体験は「Choose Me」「Stuff Me」「Stitch Me」「Fluff Me」「Name Me」という5つのステーションで構成。詰め物機は家具用を改造し、心臓を縫い込む儀式や迷子防止IDシステムなど、細部にまでこだわった。
  4. モールの地主たちはビルド・ア・ベアを誘致するために建設費を負担。子どもたちをモールに呼び込む価値が認められ、独占契約で模倣者を排除した。
  5. 2004年にIPOを実施し1億5,000万ドルを調達。2007年には250店舗に達したが、金融危機で株価は4ドル台に急落。多角化事業から撤退し、リース再交渉とコスト削減で乗り切った。
  6. 2013年にCEOを退任し、後任のシャロン・プライス・ジョンにバトンを渡した。マキシンは「創業者の次に重要なのは、自分より優れた後継者を育てること」と語る。
  7. 成功の要因を「50%は努力、50%は運」と分析。「疲れていても行くべき場所に行き、そこで得られるものを最大限に活かす」という姿勢が、キャリア全体を通じてチャンスを掴む原動力となった。
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他のエピソード

ビルド・ア・ベア:靴業界のエグゼクティブがぬいぐるみ帝国を築くまで

マキシン・クラークは、フォーチュン500企業の子会社であるペイレス・シューズの社長という輝かしいキャリアを捨て、子どもが自分でぬいぐるみを作れる店を始めた。周囲は彼女が正気を失ったと思った。投資家は疑い、友人たちは疑問を呈し、小売りの専門家はこのコンセプトがスケールするとは考えられなかった。しかし、20年以上の小売業界での経験を活かし、マキシンは「体験」そのものを商品とする巨大なビジネスを築き上げた。今日、ビルド・ア・ベアは年間5億ドル以上の売上を誇り、モールの衰退や金融危機を乗り越え、グローバルブランドとして生き残っている。このエピソードは、ガイ・ラズがマキシン・クラークにインタビューし、彼女のキャリアの軌跡、起業の瞬間、そしてリーダーシップの哲学を深く掘り下げた内容である。

05:52エレノア・ルーズベルトのもとで働いた母親

マキシン・クラークは1950年代から60年代にかけてフロリダ州コーラルゲーブルズで育った。父親は電気技師、母親はソーシャルワーカーだったが、その母親は驚くべき経歴の持ち主だった。彼女はかつてエレノア・ルーズベルトの秘書として働き、ファーストレディの旅行チームの一員として全米を回り、精神病院、病院、孤児院を視察していた。ルーズベルト大統領が死去した際、エレノアは彼女を含むスタッフに「故郷に戻ったら、私たちが旅で見た子どもたちと家族の生活を変えるようなことをしなさい」と告げた。マキシンの母親はその言葉を胸に、3人の友人とともにダウン症の子どもたちのための学校を運営した。

マキシンが16歳のとき、母親は彼女を連れてマイアミからアラバマ州セルマ行きのバスに乗り、公民権運動のデモ行進に参加した。「私は列の後ろの方にいました。それが自分の人生やアメリカの歴史にどれほどの影響を与えるか、その時は全く理解していませんでした」とマキシンは振り返る。母親は「あなたは何にでもなれる」と常に励ましたが、決して過保護な母親ではなかったという。

09:18偶然の面接が変えたキャリア

マキシンはジョージア大学でジャーナリズムを学び、卒業後は公民権弁護士を目指してワシントンD.C.に移った。しかし、ロースクールに進学する前に資金を稼ごうと、ヘクト社という百貨店のエグゼクティブ研修プログラムに応募した。ところが、電話での問い合わせは「募集は終了した」と断られた。それでも諦めずに店舗に直接赴き、「2時に面接がある」と偽って申し出た。人事担当者のスタンリー・モットがコーヒーに連れて行ってくれたところ、そこに偶然、ヘクト社の社長アラン・ブルースタインが現れた。彼はマキシンに「自分のことを話してみなさい」と促し、話を聞いた後、スタンリーに「彼女を採用しろ。前回採用した者より月150ドル多く払え」と命じた。マキシンは「自分が面接を受けているとは思っていなかった。ただ親切な男性と話していただけだった」と語る。

研修プログラムでアシスタントバイヤーになった直後、担当のバイヤーが病気になり、マキシンはわずか2ヶ月の経験で代理を務めることになった。メーカー各社は「彼女が部門を台無しにする」と心配したが、結果的に彼らが協力してくれたおかげで、マキシンは急成長を遂げた。彼女は顧客の購買データを分析し、ある部門で買い物をした人が他に何を買っているかを調べ上げ、共同広告を活用したカタログを提案した。そのカタログが配布された週末、コールセンターは注文の電話でパンクした。「結果が出せる仕事に就け。自分の結果に責任を持てる立場にいれば、注目される」とマキシンは語る。

16:00フォーチュン500の女性エグゼクティブへの道

ヘクト社で4年半働いた後、マキシンは親会社であるメイ・デパートメント・ストアーズのセントルイス本社に異動した。CEO直属となり、買収案件にも関与。ボリューム・シュー・カンパニーの買収チームにも参加した。その後、ディスカウントストア部門のベンチャー・ストアーズでマーケティング責任者に昇進。そこで後に夫となる人物とも出会った。

1992年、マキシンはペイレス・シューズの社長に就任した。当時、フォーチュン500企業のトップポジションのわずか5%しか女性が占めていなかった時代である。ペイレスは当時約25億ドルの売上、4,500店舗を擁する巨大組織だった。しかしマキシンはこの仕事に満足していなかった。「顧客から遠ざかれば遠ざかるほど、自分の活力は失われた」。メイ・カンパニーはテクノロジーの導入に消極的で、社外へのメールすら禁止されていた。「自分のビジョンが会社の先を行っていると感じた」。ペイレスが株式公開される計画があることを知り、マキシンは「カンザス州トピーカで残りの人生をCEOとして過ごしたくない」と決意し、退社を決めた。

21:27ビーニー・ベイビーの失望が生んだアイデア

退社後、マキシンは「子どもの視点」を取り戻すために、友人の子どもたちと過ごす時間を増やした。ある日、隣の家のケイティとジャックを学校から迎えに行き、一緒にビーニー・ベイビーを探しに行った。店のウィンドウには「ビーニー・ベイビー入荷」の看板があったが、中に入ると売り切れだった。親たちが一日中店を回って買い占めていたからだ。落ち込んだケイティが「こんなの簡単に作れるよ」と言った。彼女はマキシンの家の地下室にある工作部屋で手作りしようと言ったのだが、マキシンは全く違うものを聞いた。「その瞬間、電球が点いた」。

マキシンはすぐにアイデアを具体化し始めた。子どもたちは遠足が大好きで、物が作られる過程を見るのが好きだ。彼女は「ウォリー・ウォンカのチョコレート工場のような場所」を思い描いた。子どもたちが自分でぬいぐるみを作り、詰め物をし、名前をつけ、服を着せることができる店。彼女は詳細な10年事業計画を書き上げ、子どものアドバイザリーボードまで作った。ウォルト・ディズニー・ワールドへの愛情もインスピレーションの源だった。「ディズニー的なものを、モールの中に小さな形で作れないか」。

周囲の反応は冷たかった。「ペイレスを経営していたあのマキシン・クラークが、ぬいぐるみの店を始めるって?正気か?」と面と向かって言われた。しかし銀行との打ち合わせを重ねるうちに、担当者がテディベアのソックスやネクタイを着用するようになり、雰囲気は変わっていった。

26:14最初の店舗デザイン:「ウォリー・ウォンカのように」

マキシンはアメリカ国内に残っていた数少ないぬいぐるみ工場を調査し、買収も検討した。銀行は「既存の事業を買えば担保にできる」と勧めたが、結局その方針は取らなかった。彼女はブランドデザイナーのエイドリアン・ワイスと協力し、店舗の設計を進めた。テーマパークやマテル社の什器を手がける業者を紹介され、マキシンの構想は具現化していった。

店舗のプロセスは「Choose Me(選んで)」「Stuff Me(詰めて)」「Stitch Me(縫って)」「Fluff Me(ふわふわにして)」という流れで構成された。詰め物機は家具用のものを改造し、浴槽のようなカバーをかぶせた。ふわふわにする機械も浴槽型で、ノズルから空気が出てブラシで毛を整える仕組みだった。心臓をぬいぐるみに縫い込む儀式も特徴的で、これは無料で提供された。さらに「Name Me(名前をつけて)」のステーションでは、ケイティが旅行中にぬいぐるみをほとんど失くしかけた経験から、Find-A-Bear IDシステムを開発。ぬいぐるみの中にバーコードを入れ、紛失時に返却できる仕組みを作り、実際に約1万体のぬいぐるみを子どもたちに戻した。

マキシンは「私は何も発明していない。ただ部品を組み合わせただけだ。ジェフ・ベゾスは本を書かなかったし、ハワード・シュルツはコーヒーを発明しなかった。レイ・クロックもハンバーガーを発明していない。彼らはより多く売る方法を発明したのだ」と語る。

37:53開店日——そしてドアの外にできた列

1997年10月、セントルイス・ギャラリアに1号店がオープンした。開店前夜に友人や家族を招いたパーティーを開き、翌朝9時に店を開けると、すでにドアの外に列ができていた。親たちが子どもを学校に休ませて連れてきていたのだ。マキシンは「ショックだった」と振り返る。第1四半期(10月〜12月)だけで、年間予想売上の全額を達成した。初年度の売上は200万ドル。当時の平均的なモールの新規店舗が50万〜70万ドルだったことを考えれば、驚異的な数字だった。

開店直後、客が「これはディズニーの新しいコンセプトだ」「ワーナー・ブラザースの店だ」と話しているのを聞いたマキシンは、自社製品にはディズニーやワーナーの商品が一つもないにもかかわらず、その誤解がブランドの魅力を物語っていると感じた。また、地元のビジネスジャーナルに掲載された記事がきっかけで、旅行会社を経営するバーニー・エブスワースという投資家が現れた。彼は「モールには行かないが、動物が大好きだ。君の精神が気に入った」と言い、数百万ドルの投資を申し出た。バーニーは会社の約20%を取得し、マキシンの強力な支援者となった。

39:53ブランド防衛:模倣者と訴訟

ビルド・ア・ベアの成功は当然模倣者を生んだ。マキシンは「会社を過剰に法律的に保護した」と語る。商標には多額の投資を行い、模倣者に対しては法廷で対抗した。また、モールの賃貸契約には「同じモール内で自分でぬいぐるみを作る店を他に出店しない」という独占条項を盛り込んだ。これは彼女がペイレス時代に培った交渉術だった。

しかし、開業から2年後、マキシン自身が買収を検討したことのある工場「ベーシック・ブラウン・ベア・ファクトリー」から訴訟を起こされた。相手は「工場見学で営業秘密を学んだ」と主張した。マキシンは「公開ツアーに客として行っただけだ」と反論。訴訟は約3年後に和解したが、条件は非公開である。「あの工場を買収していたら、会社の文化は違っていただろう。結果的に自分たちのやり方で会社を作れて良かった」と振り返る。

45:53数百店舗への拡大と株式公開

1999年末までに14店舗を展開。モールの地主たちはビルド・ア・ベアを誘致するために建設費を負担した。子どもたちをモールに連れてくるという価値が認められたからだ。しかし、すべての立地が成功したわけではない。マイアミのアベンチュラ・モールやソーグラス・ミルズでは不振だった。南米からの観光客は衣料品を買うために来ており、ぬいぐるみには興味を示さなかった。逆に、チャイルドレンズ・プレイスやリミテッド・トゥーの近くでは好調だった。こうした学習を迅速に反映させることが成長の鍵だった。

2004年10月、ビルド・ア・ベアは株式公開(IPO)を実施し、1億5,000万ドルを調達した。マキシンは「ニューヨーク証券取引所に自社を上場させるのはアメリカン・ドリームの一部だった」と語る。IPO書類に写真を掲載し、トレーダー全員にテディベアを配り、証券取引所の外観を飾ることを許可された。投資家たちは出口を求めたが、バーニー・エブスワースは売却を望まず、「厚かましくも最後まで一緒にいたい」と言ったが、すでにオーバーサブスクライブ状態で後戻りはできなかった。

2007年には250店舗に達し、当初の事業計画の目標を達成。しかし、その直後に金融危機が襲った。株価は4ドル台にまで下落した。マキシンは多角化として展開していたドールコンセプト「フレンズ・トゥ・ビー・メイド」とカーの模型を作る「ライド・メイカーズ」から撤退せざるを得なかった。「2008年のクリスマスは、誰が子どものためにテディベアを買わないだろうかと考え、楽観的だった。それが最大の誤りだった」。約50〜75人の人員削減を年明けまで先延ばしにしたことを後悔し、「列車が来るのが見えたら、道を空けろ」という教訓を得た。モールの地主たちと全リース契約を再交渉し、コストを徹底的に削減。店舗モデル自体も見直した。

58:25手放すこと:CEO退任とレガシー構築

2013年6月、マキシンはCEOを退任した。彼女は48歳でビジネスを始め、最長15年で身を引くつもりだった。後任にはハズブロ出身のシャロン・プライス・ジョンが選ばれた。彼女はストライド・ライト社の社長も務めた経験があり、靴業界での共通点もあった。マキシンは「創業者が去った後に後任がうまくいくとは限らない。クリフ・バーやハワード・シュルツのように戻ってきた例も多い」と認めつつ、シャロンとの信頼関係を築くことに成功した。

「最初は少し口を出したが、彼女が正しい方向に進んでいると分かった。オフィスに毎日行く必要はなかった。彼女が変えたことの中には、私が好きではなかったものもあったが、結果的にはうまくいった。そこから学んだ」。シャロンは2017年に会社を再び黒字化し、現在の売上は5億ドルを超える。スター・ウォーズやハローキティとのコラボレーションを拡大し、自社キャラクターのエンターテインメント事業も発展させた。COVID-19パンデミック時には売上が45%減少したが、シャロンのリーダーシップで乗り切った。

マキシンは現在、セントルイスで女性やマイノリティの起業家への投資に注力している。「自分の会社を経営するときのようなコントロールはないが、喜びに満ちた仕事だ」。成功の要因について「50%は努力、50%は運だ」と語る。「疲れているから行くのをやめようと思った場所に、あえて行ってみる。そこで誰かに出会い、何かを得る。多くの人は自分自身を説得してチャンスを逃している。私は運を最大限に活かしてきた」。

まとめ

このエピソードが印象的に残るのは、マキシン・クラークが「子どもの視点」を真剣に受け止め、それをビジネスの中核に据えたことだ。彼女は20年以上の小売業界での経験を活かしながらも、既存の常識にとらわれず、全く新しいカテゴリーを創造した。また、創業者としてのエゴを乗り越え、後任にバトンを渡す決断とその後の関係構築のプロセスは、多くの起業家にとって貴重な教訓となる。ビルド・ア・ベアが単なる「流行」ではなく、世代を超えて愛されるブランドになった理由は、製品そのものではなく、子どもと家族が共に創り出す「記憶」という体験を提供し続けたからに他ならない。

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