
ジャスティンズ・ナットバター:ジャスティン・ゴールド。ウェイターをしていた彼が、ピーナッツバターを再発明するまで。
- ジャスティン・ゴールドの旅:キッチンのフードプロセッサーからピーナッツバター帝国へ 「How I Built This」のこのエピソードでは、ホストのガイ・ラズがジャステ...
- [00:09:35] 執念のレシピ実験 — フードプロセッサーから生まれた差別化 ジャスティン・ゴールドはペンシルベニア州西部で育ち、大学では弁護士を目指していた。しかし...
- ある日、彼はスーパーマーケットのピーナッツバター売り場を見て衝撃を受ける。選択肢は「クリーミー」か「クランチー」の2種類だけ。一方で、ジャムやゼリーの売り場はその3倍もの...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
How I Built This with Guy Raz / Guy Raz | Wondery
ジャスティン・ゴールドの旅:キッチンのフードプロセッサーからピーナッツバター帝国へ
「How I Built This」のこのエピソードでは、ホストのガイ・ラズがジャスティンズ・ナットバターの創業者ジャスティン・ゴールドにインタビュー。25歳でボルダーのアパートのキッチンで実験を始めた彼が、どのようにしてピーナッツバターという「退屈な定番商品」を再発明し、スクイーズパックという革新的なアイデアでカテゴリーを定義するブランドに育て上げたのかを掘り下げる。成功の裏には、無謀とも言える粘り強さ、コミュニティの力、そして予期せぬ喪失と再生のドラマがあった。
執念のレシピ実験 — フードプロセッサーから生まれた差別化
ジャスティン・ゴールドはペンシルベニア州西部で育ち、大学では弁護士を目指していた。しかし、ベジタリアンで「ヒッピー気質」だった彼は、西海岸へと向かい、最終的にコロラド州ボルダーにたどり着く。2001年のことだ。ボルダーではウェイターとして働きながら、山岳バイクやスキーを楽しむ生活を送っていた。
ある日、彼はスーパーマーケットのピーナッツバター売り場を見て衝撃を受ける。選択肢は「クリーミー」か「クランチー」の2種類だけ。一方で、ジャムやゼリーの売り場はその3倍もの品揃えがあった。「なぜピーナッツバターにはバラエティがないのか?」という疑問が、彼の執念の始まりだった。
自宅のアパート(ルームメイト3人と同居)で、彼はフードプロセッサーを使い、乾煎りピーナッツを挽くところから始めた。最初は単純に蜂蜜を混ぜただけだったが、数時間後には食感が「粉っぽく」なり、味が落ちることに気づく。「水の活性度と油の問題だ」と直感した彼は、水分の少ない素材を探し始める。バナナひとつとっても、バナナチップス、フリーズドライ、乾燥バナナ、バナナフレーバー、バナナシロップと、ありとあらゆる形態で実験を繰り返した。
彼はすべての実験をノートに記録。各ジャーには番号を振り、ピーナッツバターの割合、他の素材の割合、塩の量を詳細に記した。さらに、温度が製品に与える影響を調べるため、一部は戸棚に、一部は冷蔵庫に保管した。「3つの材料(ピーナッツ、蜂蜜、塩)が、ピーナッツの種類(バレンシア、バージニア、スパニッシュ、ランナー)、焙煎度合い、皮の有無で、あっという間に何十もの組み合わせになる」。この実験は4〜6ヶ月続いた。
ボルダーというエコシステム — コミュニティがもたらした競争優位
ジャスティンが事業計画を書き始めたとき、彼はボルダーという場所に恵まれていた。コロラド大学ボルダー校のビジネススクール図書館には、AからZまでの事業計画の百科事典があった。彼はそこで図書館員に声をかけられ、フランク・モイエス教授を紹介される。教授は彼の事業計画を「ズタズタに引き裂いて」くれた。
しかし、本当の転機はボルダーの食品スタートアップコミュニティだった。セレスティアル・シーズニングス、シルク・ソイミルク、ホライゾン、イジー・ソーダなど、多くのナチュラルフードブランドがボルダー発祥だった。ジャスティンは小さなサルサ会社に連絡を取り、「どうやって事業を始めたのか」「どうやって資金を調達したのか」「どうやってスケールさせたのか」と、恥ずかしげもなく質問を重ねた。「純粋だったからこそ、本当に馬鹿げた質問ができた」と彼は振り返る。
彼はまた、ボルダーに本拠を置くナチュラルフード小売チェーン「ワイルド・オーツ」(当時はホールフーズに次ぐ第2位)や「ナチュラル・グローサーズ」からも学びを得た。このエコシステムが、彼の学習曲線を劇的に加速させた。
「ピーナッツバターを作りたい」— 家族を驚かせた35,000ドルの資金調達
事業計画を完成させたジャスティンは、友人・家族から35,000ドルを調達することを目標にした。内訳は、グラインダー、原材料、ラベル、そしてキッチンのレンタル料と在庫の構築費用だった。
彼は靴箱に数種類のピーナッツバターの瓶を詰め、ペンシルベニア州西部の実家に帰省した。家族は彼がついに大学院に戻ると期待していた。「弁護士になるための勉強をしていたのに、カリフォルニアに移り、ウェイターをしている。そして『大学のある町に引っ越したから、もうすぐ学校に戻るよ』と言っていた。だから、靴箱の蓋を開けて『ピーナッツバターを作りたいんだ』と言ったときの家族の困惑は想像できるだろう」
祖母のグラディス・ゴールドは、彼の大学資金を援助してくれた人物で、教育とキャリアに非常に厳格だった。最初の反応は「ピーナッツバターはもう十分にできている。変える必要なんてない」というものだった。それでも、叔父、両親、姉、そして祖母から受け継いだ遺産を合わせ、彼は35,000ドルを集めた。
ファーマーズマーケットの教訓 — フィードバックを聞くべき時と無視すべき時
資金を手にしたジャスティンは、まず中古の業務用グラインダー「Urschel(アーシェル)」を3,250ドルで購入。新品は75,000ドルもする代物だった。次に、デンバー南部の共有キッチンを深夜に借りる契約を結び、ルームメイトのジョン・イカボーンと共に夜通しで瓶詰め作業を行った。
最初の販路はファーマーズマーケットだった。農産物ではないピーナッツバターの出店は簡単ではなかったが、「春先に野菜の収穫が始まる前だけ出させてほしい。農家が増えたら場所を空ける」という条件でなんとか許可を得た。最初の週は場所がなくて追い出されたが、客から「ナッツバターはどこ?」という声が上がり、小さなコーナーを確保できるようになった。
ここで彼は2つの重要な教訓を得る。第一に、「すべての人を満足させることはできない」ということ。蜂蜜の量について「多すぎる」「少なすぎる」と相反する意見が来るうちに、「これが自分の製品だ」と線引きする必要性を学んだ。第二に、フレーバー付きの製品だけを揃えていた彼は、客から「毎日食べられるプレーンなものはないの?」と聞かれ、翌週には「クラシック」を投入。これがベストセラーになった。「差別化だと思っていたフレーバーよりも、シンプルで地元の味を支えたいというニーズの方が強かった」
ホールフーズへの道 — 「自分で棚を補充します」
ファーマーズマーケットが季節的に終了すると、ジャスティンの次の目標はホールフーズへの納品だった。ボルダーのホールフーズでバイヤーのデイビッド・スパイスに声をかけると、「まずUNFI(大手ナチュラルフード卸売業者)と契約しろ」と言われる。しかしUNFIは「最低30〜40店舗への配送が必要」と条件を出し、ジャスティンには対応できなかった。
そこで彼は再びデイビッドのところへ行き、こう提案した。「自分で棚をチェックし、必要な分だけ納品し、自分で棚に並べます。さらに、毎日デモ販売をします。もし1〜2ヶ月で十分な売上が立たなければ、在庫はすべてスタッフに無料で提供し、二度と来ません」。この提案が受け入れられ、彼はボルダーの1店舗からスタートした。
その後、彼は1店舗ずつ足で回り、「ボルダーの店ではデイビッドが採用してくれた」という実績を武器に、他のホールフーズ店舗にも拡大。2006年までに約25店舗(ホールフーズ10〜12店舗を含む)への納品を実現した。しかし、年間売上は約15万ドルと、まだまだ小さな規模だった。
マウンテンバイクライドが生んだスクイーズパック革命
2006〜2007年、売上の伸び悩みに焦りを感じていたジャスティンは、ある日マウンテンバイクに乗りながらエナジージェルのスクイーズパックを食べていた。「なぜ誰もピーナッツバターをスクイーズパックに入れないんだ?」というアイデアが閃いた。
しかし、実現は困難を極めた。彼が連絡した3つの大手スクイーズパック製造会社はすべて「ナッツアレルギーのリスク」を理由に断った。そこで彼は「自分で作るしかない」と決意。中古のスクイーズパック製造機を3万ドルで見つけ、さらに厨房設備を含めて7万5千ドルが必要になった。家族からの追加支援は得られず、エンジェル投資家からも「リスクが高すぎる」と断られた。最終的に、ルームメイトの両親が7万5千ドルを融資してくれた。
製造機は小型車ほどの大きさで、既存の共有キッチンには入らなかった。そこで彼は、同じく成長途上だったボボズ・オートバーの創業者ベリル・スタッフォードと厨房をシェア。偶数日はボボズ、奇数日はジャスティンズを製造するという体制を取った。
スクイーズパックをホールフーズのエナジーバー売り場に置いたが、全く売れなかった。客は「これは何だ?どう使うんだ?」と困惑した。そこで彼は売り場を通常のピーナッツバターの隣に移動。すると売れ行きが好転した。さらに、購入理由を分析すると、第3位が「携帯プロテイン」、第2位が「ポーションコントロール」、そして第1位が「トライアルサイズ」だった。「アーモンドバターは高くてリスクがあったけど、スクイーズパックなら試せる」という客が、その後瓶入り製品を購入するという好循環が生まれた。
買収、解雇、そして復帰 — ブランドの現在地
2010年、ビジネスが軌道に乗り始めた矢先、ジャスティンの mentor であり社長のランス・ジェントリーが脳腫瘍で急逝。彼は悲しみを乗り越え、2012年にはVMGというサンフランシスコのプライベートエクイティから約4,700万ドルの投資を獲得した。その後、元セレスティアル・シーズニングスのCEOピーター・バーンズを共同CEOとして迎え、ブランドは急成長。2016年にはホーメル・フーズが2億8,000万ドルで買収した。
買収後、ジャスティンは5年間ホーメルに残ったが、次第に自分の役割が減少。COVID-19の時期には「活用されていないどころか、邪魔になっている」と感じ、2021年に解雇された。「悪い別れ方だった。怒りと恨みが渦巻き、悲しみのプロセスをすべて経験した」。しかしその後、受け入れと喜びの段階を経て、「自分の人生は自分のものだ」と感じるようになった。
そして2023年、コネチカットの投資グループ「フォワード」がホーメルからジャスティンズの過半数の株式(51%)を買収。創業者のマット・リースは「大企業の傘下で本来のポテンシャルを発揮できていないブランドを引き出し、再成長させる」ことを得意としており、ジャスティンに復帰を打診した。現在、ジャスティンはオーナー兼創業者として、日々の経営には関与せず、重要な戦略的判断に関わる立場でブランドに復帰している。「このビジネスを2倍、3倍、4倍に成長させることが目標だ」と語る。
まとめ
このエピソードが特に印象的なのは、ジャスティン・ゴールドが「ノー」を決して受け入れなかった姿勢と、ボルダーというコミュニティの力の両方が、彼の成功に不可欠だったことだ。彼は自らの成功を「50%は努力、50%は運」と評価する。ボルダーという場所、ランスとの出会い、マウンテンバイクでの閃き、そしてReese'sが消費者を教育してくれていたこと — これらすべてが「ラダーのように積み重なった」と語る。しかし、その運を掴むために彼が払った努力(深夜の製造、1店舗ずつの営業、顧客の名前を覚えるノート術)は並大抵ではない。創業者が自らのブランドを売却し、解雇され、再び復帰するという稀有なストーリーは、ビジネスの成功が直線的ではなく、むしろ螺旋状に展開することを示している。
要点
- ジャスティン・ゴールドは2001年、ボルダーのアパートでフードプロセッサーを使い、蜂蜜やシナモンなど様々なフレーバーのピーナッツバター実験を開始。4〜6ヶ月かけて30〜40種類のレシピを開発した。
- ボルダーという土地は、セレスティアル・シーズニングスやシルク・ソイミルクなど多くのナチュラルフードブランドを輩出したエコシステムがあり、ジャスティンは地元の起業家や教授から無償のアドバイスを得られた。
- ホールフーズへの納品を実現するため、彼は「自分で棚を補充し、デモ販売も行う」という条件を提示。1店舗から始め、顧客の名前や特徴をノートに記録する戦略で徐々に店舗数を拡大した。
- マウンテンバイク中に閃いたスクイーズパックのアイデアは、ナッツアレルギーのリスクから製造会社に断られ続けたが、中古機械を購入し自社製造に踏み切った。当初はエナジーバー売り場で失敗したが、通常のピーナッツバター売り場に移動することで成功した。
- スクイーズパックの最大の購入理由は「トライアルサイズ」であり、これが瓶入り製品の販売促進にもつながる好循環を生んだ。
- 2010年、社長で mentor のランス・ジェントリーが脳腫瘍で急逝。その後、VMGから4,700万ドルの投資を得て成長を加速。2016年にホーメル・フーズが2億8,000万ドルで買収した。
- ホーメル傘下でブランドは「冷凍保存」状態となり、ジャスティンは2021年に解雇。しかし2023年、フォワードという投資グループが過半数を取得し、彼は創業者としてブランドに復帰した。