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How I Built This with Guy Raz · 2026年5月18日

Room & Board: ジョン・ギャバート。破談、家族の亀裂、そして家具大手の誕生

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この記事でわかること
  • 家族の反対を押し切って家具帝国を築く——Room & Board創業者ジョン・ガバートの物語 ジョン・ガバートは、ミネアポリス郊外で父親が営む伝統的な家具店で育ちながら、...
  • [06:10] ガバート家の家具店——花柄と曲線のアメリカーナ 1950〜60年代のミネアポリス郊外で、ジョンの父ドン・ガバートが営んでいた家具店「Gabberts」は、...
  • ガバート家の店が当時としては先進的だったのは、家具を単に並べるのではなく、実際の部屋のように完全にコーディネートして展示した点だ。これはノースカロライナのメーカーが小売店...
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How I Built This with Guy Raz / Guy Raz | Wondery

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家族の反対を押し切って家具帝国を築く——Room & Board創業者ジョン・ガバートの物語

ジョン・ガバートは、ミネアポリス郊外で父親が営む伝統的な家具店で育ちながら、1972年にスウェーデンでIKEAに出会い、「家具店が自らデザインし製造をコントロールする」という全く新しいビジネスモデルに衝撃を受けた。しかし、父親は彼の近代的なビジョンに反対し、約束された事業承継は破談。10年にわたる家族との断絶を経て、ジョンは自ら立ち上げた小規模部門「Room & Board」を買い取り、そこから年商数億ドル、全米展開する家具ブランドへと成長させた。このエピソードは、外部投資家を一切入れず、成長よりも持続可能性を優先し、最終的に従業員所有(ESOP)へと移行した稀有な企業の軌跡を、創業者自身の言葉で描き出す。

06:10ガバート家の家具店——花柄と曲線のアメリカーナ

1950〜60年代のミネアポリス郊外で、ジョンの父ドン・ガバートが営んでいた家具店「Gabberts」は、当時のアメリカの典型的な家具を扱っていた。現在「ミッドセンチュリー・モダン」と呼ばれるデザインが当時人気だったと思われがちだが、実際に売れていたのは「アメリカン・コロニアル調の、曲線的な脚と花や鳥のプリントが施された布地を使った家具」だったとジョンは語る。家具はほぼすべてアメリカ国内で製造され、ノースカロライナ州が最大の生産拠点であり、ニューイングランドやミシガン州グランドラピッズも主要産地だった。

ガバート家の店が当時としては先進的だったのは、家具を単に並べるのではなく、実際の部屋のように完全にコーディネートして展示した点だ。これはノースカロライナのメーカーが小売店向けに使っていた手法で、父ドンはそのデザイナーを雇い入れて店舗設計に採用した。さらに、顧客がコーヒーを飲めるスペースや子供の遊び場まで設けられており、50年以上経った今でも「子供の頃あの店で遊んだ」と語る大人がいるほど、地域に記憶される店だった。

09:4123歳で社長に——しかしフラストレーションの日々

ジョンはミネソタ大学に通いながら店で働き、ビジネスとデザイン関連の授業だけを受けて学位は取得しなかった。父がフロリダに家を買いゴルフに夢中になり、半年間店を離れるようになると、ジョンは自然と経営を任されるようになり、23歳で社長に就任した。年上の従業員を管理することに特に困難は感じなかったが、次第にビジネスの仕組みそのものに強いフラストレーションを覚えるようになる。

問題は二つあった。第一に、メーカーが製品を完全にコントロールしていたことだ。ジョンは市場に出向いてメーカーの製品を選ぶしかなく、しかもメーカーは売れ行きが悪ければすぐに生産を打ち切るため、在庫の入れ替わりが激しく、安定した商品展開ができなかった。第二に、販売員は100%歩合制だったため、「彼らは会社のためではなく、自分のために働いている」状態だった。顧客の最善の利益よりも、とにかく売ることを優先する販売員たちに、ジョンは強い違和感を抱いた。

13:33IKEAとの運命的な出会い——「これが未来だ」

1972年、ジョンはヨーロッパの小売店視察ツアーに参加し、スウェーデンでIKEAを訪れた。当時IKEAはスウェーデンに数店舗とドイツに1店舗しかなく、アメリカではほとんど知られていなかった。彼が目にしたのは、単なるデザインの良さだけではない。IKEAはすべての製品を自社でデザインし、東欧のメーカーに製造を委託するという、従来の家具業界の常識を完全に逆転させたプロセスだった。「私たちが製品の創造主であり、あなた(メーカー)は私たちが決めた価値で、私たちが望む期間、製造するのだ」——この考え方にジョンは衝撃を受け、「これこそが未来に必要なものだ」と確信した。

帰国後、ジョンはガバート店内に小規模な実験部門を設けた。当初「Put Together」、後に「Home and Company」と名付けられたこのコーナーは、IKEAのように自宅で組み立てるモダンで安価な家具を扱うもので、100,000平方フィートの店舗のうちわずか4,000平方フィートのスペースだった。成績は「まあまあ」で、決して大成功ではなかった。後に「Room & Board」と名付けられるこの部門は、ミッドウェスタン的な響きを持つ名前として、友人と話し合って決めたものだった。

18:36破談——父の裏切りと10年の家族断絶

1976年か77年、ジョンは父に事業承継の提案を持ちかけた。ジョンはすでに実質的に経営を任されており、全国家具協会の理事会メンバーとして同世代の後継者問題を目の当たりにしていた。父との間で法的文書に署名し、1980年10月1日を期限にジョンが父の株式を買い取り支配権を得ることで合意した。

しかし、その日が来てジョンが「約束の時です」と告げると、父は「やらない」の一言だった。法的合意があるにもかかわらず、父は「お前のやっていることは会社を潰す」と主張した。1970年代の高金利と不安定な経済状況の中、ガバートは辛うじて黒字を維持していたが、父にはジョンの近代化路線がリスクにしか見えなかった。

弁護士は「裁判で勝つことはできるが、2〜3年かかる」と助言した。しかし、父親を法廷に訴えるという選択肢は、ジョンにとって現実的なものではなかった。代わりに、ジョンは自身が保有するガバートの株式30%(当時約80万ドル相当)と引き換えに、Room & Board部門(すでにデンバーとミネアポリスに3店舗を持っていた)を買い取る提案をした。さらに複雑だったのは、ジョンが3人のきょうだいに「私と投票するか、父と投票するか」と選択を迫ったところ、全員が父の側についたことだ。こうしてジョンは家族と10年以上にわたって一切の連絡を絶つことになる。

35:47デザインの源泉——ウォーカー・アート・センターと鋼鉄のフレーム

1980年から88年までの間、ジョンはRoom & Boardに集中できず、子供用家具のビジネスや卸売ショールーム、デザインスタジオなど複数の事業に手を広げていた。40歳を迎えた頃、「人生の残りをどうするか」と自問し、すべてを整理してRoom & Boardに専念する決断をする。

転機は、エディナの店舗を広いスペースに移した時に訪れた。従来のIKEA的な組み立て式家具に加えて、高品質なアメリカ製の家具を並べてみたところ、予想をはるかに超える売れ行きを示した。10年前にIKEA的な家具を買った若い顧客たちが、今やキャリアを築き、「仮住まい用ではない、本物の家具」を求めていたのだ。

この高品質路線のデザイン感覚はどこから来たのか。ジョンはミネアポリスのウォーカー・アート・センターの影響を挙げる。ニューヨークとサンフランシスコに次ぐ全米第3位の現代美術館である同館で、彼は特に彫刻家マーティン・ピューリアの作品に惹かれた。ピューリアの作品のフレームに使われていた「溶接跡が見えるままの生の鋼鉄」を見て、「これだ。家具にぴったりだ」と直感した。Room & Boardのアイコンとも言える、鋼鉄の脚を持つパーソンズ・テーブルは、このインスピレーションから生まれた。

46:38アメリカ製造へのこだわり——サプライチェーンの逆転

Room & Boardの革新的な点は、単にデザインするだけでなく、サプライチェーン全体を再構築したことにある。例えば、スチールフレームのテーブルは、もともと防犯ゲートを製造していた小さな工場に「家具を作ってみないか」と依頼したことから始まった。現在、その工場はRoom & Boardの最大のサプライヤーの一つに成長している。

同社の製造哲学の核心は「専門家による分業」だ。一つのテーブルと椅子のセットでも、テーブルのフレーム、木製天板、椅子の木部、張地——それぞれを最も得意とする異なるメーカーが担当する。これにより、各パーツの品質が最大化されると同時に、顧客に膨大な選択肢を提供できる。例えば、同じフレームに異なる天板(木、大理石、ガラス)を組み合わせることで、20種類以上のバリエーションが生まれる。

アメリカ国内で製造することの経済合理性について、ジョンは明確な計算を持っている。中国で作る場合のコスト優位性は約30%だが、それは主に賃金差によるものだ。しかし、シンプルでクラシックなデザインに特化したRoom & Boardの場合、材料費が占める割合が高く、人件費の割合は小さい。そのため、輸送費や品質管理のメリットを考慮すれば、アメリカ国内生産で十分に競争力を持てるというのが彼の結論だった。

55:27「ノー」と言い続ける経営——投資家を拒否し、ESOPへ

Room & Boardが成長を続ける中、プライベートエクイティからの買収提案は「最も頻繁にかかってくる電話」だった。しかしジョンは一度も真剣に検討しなかった。「彼らは創業者より自分たちの方が賢いと思っている。過剰にレバレッジをかけ、キャッシュを引き出し、自然な成長速度を無視して無理に拡大させる。結果的に多くのビジネスをダメにしてきた」と彼は語る。

代わりにジョンが選んだのは、従業員持株制度(ESOP)への移行だった。彼は株式公開やPEへの売却などあらゆる選択肢を検討した末、銀行融資を介さず、自らが全額を融資する形でESOPに株式を売却する方法を採用した。つまり、ジョンは従業員に株式を「譲渡」し、その対価は将来の会社の利益から支払われる仕組みだ。これにより、従業員は会社の成功に直接的な利害関係を持つオーナーとなった。

この決断の背景には、成長そのものを目的としない経営哲学がある。Room & Boardは年間8%の利益率を目標とし、好況時に無理に拡大しない。その結果、2008年の金融危機では売上が20%以上落ち込んでも、赤字にはならなかった。「何もしないという決断が、時に最も重要な決断である」とジョンは言う。

まとめ

このエピソードが特に印象的なのは、ジョン・ガバートが「成功」の定義を自らの手で書き換えた点だ。家族との断絶という代償を払いながらも、外部資本に頼らず、成長神話に踊らされず、従業員に会社を託す——彼の選択の一つ一つは、現代のビジネス常識に対する静かな反抗である。IKEAから学びながらも、IKEAとは全く異なる道を歩んだこと、そして父親との確執が最終的に父の「ジョンが買い取るだろう」という言葉で和解の兆しを見せたエピソードは、ビジネスと家族の複雑な関係を象徴している。

要点

  • ジョン・ガバートは1972年のIKEA訪問で「小売店が自らデザインし製造をコントロールする」モデルに衝撃を受け、これがRoom & Boardの原点となった
  • 父親との事業承継の約束が一方的に破棄され、ジョンはガバートの株式30%とRoom & Board部門を交換。その後10年以上家族と断絶した
  • Room & Boardのデザインは、ウォーカー・アート・センターで見た彫刻家マーティン・ピューリアの鋼鉄フレーム作品から直接的な影響を受けた
  • 同社の製造モデルは、防犯ゲート工場など異業種のメーカーを家具製造に転換させ、複数の専門メーカーによる分業でコストと品質を最適化する
  • アメリカ国内生産の優位性は、シンプルなデザインにより材料費比率が高く人件費比率が低いため、中国製造との価格差(約30%)を輸送費と品質で相殺できる点にある
  • プライベートエクイティからの買収提案をすべて拒否し、年間8%の利益率を目標とする持続可能な成長戦略を貫いた
  • 2008年の金融危機では売上が20%以上減少したが、無理な拡大をしていなかったため赤字を出さずに乗り切った
  • 最終的に、銀行融資を介さず創業者自身が全額融資する形で従業員持株制度(ESOP)に移行し、従業員が会社のオーナーとなる道を選んだ