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Cloudbase Mayhem Podcast · 2026年6月2日

#272 ジンバブエから中国、そしてアルプスへ——パラグライダーの冒険、トラウマ、そして癒しの旅

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この記事でわかること
  • ジンバブエから中国、アルプスへ——パラグライダーが辿った冒険、トラウマ、そして癒しの旅 本エピソードでは、ホストのGavin McClurgが、ジンバブエ出身で中国に15...
  • [0:17] パラグライダーとの出会い——ジンバブエでの無謀な始まり アンソニーがパラグライダーと出会ったのは1992年から93年、彼が中国で働いていた頃に遡る。帰省前に...
  • 一週間の訓練は、ほぼグランドハンドリング(地上での翼の操作練習)に費やされた。インストラクターは彼らに最低限の知識しか与えず、「離陸して真っ直ぐ降りろ」と無線で指示するだ...
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Cloudbase Mayhem Podcast / Gavin McClurg

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ジンバブエから中国、アルプスへ——パラグライダーが辿った冒険、トラウマ、そして癒しの旅

本エピソードでは、ホストのGavin McClurgが、ジンバブエ出身で中国に15年滞在したアンソニー・ディロンを迎え、30年以上にわたる彼の飛行人生を掘り下げる。アンソニーは正式な指導なしに飛行を始め、中国で一人で飛び続け、インドネシアの火山で雲に吸い上げられる恐怖を経験し、2024年にはパイロットエラーによる大事故で瀕死の重傷を負った。しかし、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理)療法を通じてPTSDを克服し、現在は息子たちと共にアルプスでの飛行を計画している。この会話は、冒険への飽くなき渇望、事故の生々しい詳細、そして心理的トラウマからの回復という、稀有な深みを持つ。

0:17パラグライダーとの出会い——ジンバブエでの無謀な始まり

アンソニーがパラグライダーと出会ったのは1992年から93年、彼が中国で働いていた頃に遡る。帰省前に父親から「ヒッチハイカーに勧められてパラグライダーを買った。一緒にコースを受けないか?」という電話が入った。当時ジンバブエは内戦(ブッシュ・ウォー)の余韻が残る危険な環境だったが、アンソニーと弟は即座に承諾した。父親は50代後半で、母親は猛反対したという。

一週間の訓練は、ほぼグランドハンドリング(地上での翼の操作練習)に費やされた。インストラクターは彼らに最低限の知識しか与えず、「離陸して真っ直ぐ降りろ」と無線で指示するだけだった。初飛行で友人の一人がバオバブの棘だらけの木に着陸したが、誰も助けようとせず、むしろ彼のライザー(翼とハーネスを繋ぐ紐)を外して、自分たちが早く次のフライトをできるようにしたという、無謀極まりないエピソードが語られる。

父親は初めての本格的なフライトを終えた後、母親の強い要請で引退。アンソニーと弟は南アフリカから「Nuclear 33」というグライダーを注文した。これは旧型のEdelのコピーで、33のセル(翼の区画)を持つことからその名がついた。リザーブ(予備パラシュート)もシートボードも背中 protection もない、文字通り「紐だけ」の装備だった。

弟の初フライトは衝撃的だった。彼は「真っ直ぐ飛んで着陸しろ」と言われたにもかかわらず、離陸後、一度も旋回せずに800メートルも上昇してしまった。3〜4メートル/秒の強烈なサーマル(上昇気流)に乗ったのだ。彼は恐怖のあまり、その日を最後に二度と飛ばなかった。さらに追い打ちをかけたのは、一週間後にケープタウンの大学で、友人がハンググライダーのコースで着陸時に背骨を骨折したという知らせだった。

5:52中国での孤独な飛行——15年の開拓者時代

アンソニーは中国に戻り、アメリカの多国籍企業で北部の省を担当し、タバコなどの作物栽培を農家と共に支援する仕事をしていた。週末になると、彼はパラグライダーを車に積み込み、適当な丘を見つけては「ただ送り出す」だけの飛行を繰り返した。驚くべきことに、彼はその後5年間、中国で他のパラグライダーパイロットに一人も出会わなかった。

この無謀な時代に、彼は二度の大怪我を負っている。1996年頃、海岸沿いのサイトで風速が自分の技量を超えているにもかかわらず飛び、山の裏側に流され、乱流で翼が崩壊。着陸時に耕作地の畝で足首を捻り骨折した。香港に飛んでピンを埋め込む手術を受け、2週間後にはロシアへの出張に出かけていた。

さらに悪質だったのは、ジンバブエに里帰り中に参加したコンペでの事故だ。午前中のスポットランディング(定点着陸)でモザンビーク国境近くまで飛び、AK-47を持った男たちを見て慌てて引き返した後、午後のポイント・トゥ・ポイント競技で、彼は離陸に失敗した。サーマルを掴もうと攻撃的になりすぎて翼をストール(失速)させ、ヒルの端に激突。尾骨から下に体重がかかり、3つの椎骨を圧迫骨折した。この時もリザーブもシートボードも背中プロテクションもなかった。ジンバブエの医師は手術を勧めたが、父親の助言で南アフリカの専門医に診てもらい、「若いし、そのまま治せ」と言われ、コルセットを6ヶ月着用して自然治癒を選んだ。

10:04SARSと再起——北京のクルーとの出会い

2003年、SARS(重症急性呼吸器症候群)が中国を襲い、アンソニーの会社はすべての駐在員とその家族を国外に避難させた。彼は若い部下たちを夜のバーから遠ざける方法を考え、旧友のZhang Chengyi(張成義)に連絡を取った。張は中国航空スポーツ連盟(CAF)にパラグライダーを公認させる立役者だった。彼の紹介で北京のクラブ「Super Wing」と繋がり、アンソニーは外国人部下たちの通訳兼指導役として再び飛行を始めた。

このクラブはアンソニーを「唯一の外国人」として温かく迎え入れ、飛行の可否についても非常に慎重に判断してくれた。彼はここでWoody Valleyのエアバッグ付きハーネスとリザーブを初めて購入。最初の年だけで150時間を飛行し、すぐに「もっと高性能な翼が欲しい」という誘惑に駆られた。このクラブで最も親しくなったのが、He Jiangping(何江平)だった。彼は中国トップクラスのパイロットで、Boomerangという高性能翼を操り、保守的でありながら非常に有能な人物だった。アンソニーは彼と共に、より遠く、より高く飛ぶ技術を学んだ。

2004年、アンソニーは中国で初めての本格的なクロスカントリー飛行に挑戦した。Sigma 6という翼にアップグレードし、朝9時か10時に異常に高く上がった彼は、「18km先の尾根を見に行こう」とフルスピードバー(加速システム)で突っ走った。しかし最初の尾根を越えた途端、強烈なシンク(下降気流)に捕まり、谷間のクリスマスツリー農園に不時着。地元の農家が三輪バイクで現れ、モミの木をノコギリで切り倒してグライダーを回収し、自宅に連れて行って昼食を振る舞い、15〜20km離れた出発点まで送り届けてくれた。アンソニーは「中国の人々はパイロットを王様のように扱ってくれる」と語り、北京周辺の飛行は20〜30kmのシリンダー制限があったこと、JALの747が真下を通過した恐怖体験なども明かした。

17:11インドネシアと火山——恐怖と決断

2005年、アンソニーの会社は合併を機にインドネシアへの異動を打診。彼は「バリに週末用のヴィラを用意する」という条件を会社に呑ませ、ジャワ島東端のスラバヤに拠点を移した。バリのTimbus(ティンブス)というリッジソアリング(尾根沿いの滑空)サイトを愛し、その後はジャワ島の火山地帯でも飛行するようになった。

彼の息子たちは「台所のドアに印をつけて、この高さに達したら連れて行く」と約束したほど背が伸び、 tandem(タンデム:二人乗り)のライセンスを取得。中でも次男のダグラスを最初の passenger として、Timbusでのリッジソアリングから始め、やがてジャワ島の火山でも飛ぶようになった。

2007年12月26日、アンソニーは一人で飛行中、半ば普通のクロスカントリー日和だと思っていた日が一変する。最初の火山を横切る途中で「 snatched(攫われた)」——雲に吸い上げられたのだ。GPSは持っていたが、雲の中では視界が効かない。スパイラル(急旋回降下)やビッグイヤーズ(翼端を折りたたむ降下法)を試しても、依然として3〜4メートル/秒で上昇し続けた。彼はビッグイヤーをさらに強力にした「ビーライン・ストール」を敢行。33平方メートルの大型翼(Bruce Goldsmith設計)を強制的に失速させ、ようやく雲から抜け出した時、彼は火山「Penangungan」からわずか50ヤードの距離にいた。再び雲に吸い込まれそうになり、フルスピードバーで必死に逃げ、震えながら着陸した。

その夜、中国のクルーから電話が入り、He Jiangpingがオーストラリアのストーム(嵐)に巻き込まれて死亡したことを知らされた。2007年の世界選手権での出来事で、彼は雲に吸い上げられ、30,000フィート以上に達した後、氷の塊のように落下したという。アンソニーは一睡もできず、翌朝、生まれたばかりの娘クレアを抱え、「しばらく飛行から離れる」と決意した。妻は「クレアが18歳になるまで」と言い、アンソニーは翼をしまい込んだ。

28:07アメリカでの再起——息子たちとの飛行

2012年にアメリカへ転勤。ノースカロライナ州に「Tayter Hill」というサイトがあると聞いたが、3時間のドライブが必要だった。彼は「クレアが18歳になるまで」という約束を守り、飛行を再開しなかった。

時は流れ、次男ダグラス(当時24歳)が独学でパラグライダーのコースに申し込んだ。アンソニーは「その前に基礎を教えよう」と、旧式のソロ翼でグランドハンドリングを指導。ダグラスは地面を引きずられながらも大喜びした。数週間後、今度は三男ベン(22歳)が「僕も行く」と言い出した。2023年のことだ。

クレアは18歳を超え、アンソニーは再び飛行への渇望を抑えきれなくなっていた。息子たちが送る飛行映像を見るたびに興奮する彼を見て、クレアが「パパ、飛びたいんでしょ?」と背中を押した。彼はノースカロライナのクルー(Lucas、Cohen、Buckら)と知り合い、彼らの回収役を務めるうちに、旧式のAirwave Mustangを取り出してグランドハンドリングを再開。ある日、意を決して離陸した。

15年ぶりの飛行は「全く別の体験」だった。クルーたちから「離陸して、滑空して、着陸しろ」と念を押されていたにもかかわらず、美しい離陸の直後にサーマルを掴み、思わず旋回。Lucasがさらに尾根の先で待っており、二人は空中で叫び合った。アンソニーは「高性能の翼を操るのは、まるで毒蛇を手懐けるようだった」と振り返る。しかし、着陸後に二人の息子が待っていた光景は、「飛行を愛する父親なら誰でも理解できる、この上ない瞬間」だった。

34:032024年の大事故——100%パイロットエラー

2024年春、アンソニーは息子たちとイタリアのガルダ湖でSIV(Simulation d'Incidents de Vol:緊急時対応訓練)に参加。その初日、氷の上で転倒し、右肘と右肩を脱臼。自分で肩をはめ直し、痛み止めのジクロフェナク(ボルタレン)を服用して、そのまま訓練を続行した。着陸時にインストラクターの指示で水上に出過ぎ、引き返そうとして水没。救助されようとした際、脱臼した右腕を掴まれて絶叫した。

帰国後、彼はノースカロライナの地元サイトで「ベンチング・アップ」(複数のパイロットが順番に離陸し、上空でサーマルを共有する練習)を行っていた。2回のサージ(翼が前方に膨らむ現象)を立て続けに経験。1回目は対処できたが、2回目で100%対称崩壊(翼全体が折りたたまれる)が発生。地上100〜150フィート(約30〜45メートル)の高さで、彼は「すべてを間違えた」。翼をストールさせ、バックフライ(逆飛び)状態になり、ロックされたスパイラルに突入。なんとか回復したものの、そのまま木々に激突した。

直径3〜4フィート(約1メートル)の大木が彼の重みで折れ、彼は枝を突き破って地面に叩きつけられた。後ろに生えていた若木が倒れてくる丸太を止めてくれなければ、押し潰されていたという。結果は、左鎖骨骨折、左上腕二頭筋断裂、肋骨11本骨折、脾臓破裂。救助隊が駆け付け、救急ヘリで緊急手術。失血量は6リットルに及んだ。

39:48EMDR療法——トラウマからの解放

奇跡的に回復したアンソニーだったが、精神的な壁が立ちはだかった。新しい翼(Mac Para Eden 8)を購入し、フランスのアヌシーでFab(Flyer社)のSIVに参加して再飛行を果たしたものの、飛行場に向かう車の中で不安発作に襲われるようになった。離陸地点に立っても、長時間座り込んでしまい、離陸できない。彼は事故の全容をInsta360で撮影しており、その映像を何度も分析していたが、恐怖は消えなかった。

そんな時、ノースカロライナのパイロットJohnが「EMDR(眼球運動による脱感作と再処理)を試してみては?」と提案した。アンソニーはラリー(ノースカロライナ州都)のセラピストを訪ね、「典型的なPTSD」と診断され、6〜7回のセッションを受けた。

EMDRの手法は、両手にクリッカー(音と振動を発生させる装置)を持ち、セラピストの指示に従ってトラウマ記憶を「再処理」するというもの。アンソニーは「安全な場所」として、インドネシアのスンバ島で釣りをした記憶——美しい砂浜と静かな海——をイメージした。セッションを重ねるごとに、事故の記憶が持つ恐怖の力が弱まっていった。

5〜6回目のセッション後、彼は息子と共にバージニア州のEagle Rockというサイトを訪れた。車で上がれないためハイキングで離陸地点まで登り、無風の中でフォワード・ローンチ(前方離陸)を敢行。見事に飛び立ち、着陸した後、彼は「事故以来、初めて不安を感じなかった」と実感した。Gavinも自身の体験として、親友Terryの死をEMDRで処理したことを語り、「2回のセッションで自然に別れを告げられた」と共感を示した。

46:46未来への展望——息子たちと共に

アンソニーは飛行への情熱の根源を「冒険への愛」と語る。彼はジンバブエのザンベジ川でワニのいる水域でのスピアフィッシング、少年時代の狩猟、そして鷹狩り(falconry)を経験してきた。「足が地面を離れた瞬間の自由感に勝るものはない」と彼は言う。

現在の計画は目白押しだ。エピソード収録の数日後には、息子たちとフランスアルプスへ飛び、FabのSIVに参加。ダグラスとベンは「Narrowe Highway」と呼ばれるルートでシャモニーを目指す計画を立てている。10月には、ノースカロライナの伝説的パイロットBubba Goodmanと共に南アフリカ・ケープタウンへ10日間のパラグライダーサファリに出かける。ポータービル、ライオンズヘッド、シグナルヒル、テーブルマウンテン、セッジフィールド、アウエニスク峠など、名所を巡る予定だ。ガイドは伝説のBarry Petersonが務める。

ダグラスは2024年のX Red Rocksレースに出場予定だったが、トレーニング中にテイターヒルで事故を起こし、3つの椎骨を圧迫骨折。しかし、BPC-157(「ウルヴァリン」の異名を持つペプチド)で驚異的な回復を見せ、2日後には歩き、一週間後には専門医と「2ヶ月後のレースに出られるか」を交渉していたという。彼は2025年のX Red Rocks出場を目指してトレーニングを続けている。

まとめ

このエピソードが特別なのは、単なる冒険譚や事故の詳細ではなく、「なぜ飛び続けるのか」という根源的な問いと、「どのようにして恐怖を克服するのか」という実践的な答えが、一人のパイロットの人生を通じて描かれている点にある。アンソニー・ディロンの30年にわたる飛行人生は、無謀な情熱、痛みを伴う学び、そして心理療法という現代的なツールによる再生の物語だ。特にEMDRの具体的な効果——トラウマ記憶を「安全な場所」のイメージで上書きするプロセス——は、同じ苦しみを抱えるパイロットにとって貴重な指針となる。Gavin自身も同じ手法で親友の死を処理したと明かし、この対話は単なるインタビューを超えて、コミュニティ全体への癒しのメッセージとなっている。

要点

  • アンソニーは1992年、ジンバブエで正式な指導なしにパラグライダーを始め、リザーブも背中プロテクションもない状態で飛行した。
  • 中国で15年間、他のパイロットと出会わないまま一人で飛び続け、足首骨折と脊椎圧迫骨折という二度の大怪我を経験。
  • 2003年のSARSを機に北京のクラブ「Super Wing」と出会い、He Jiangping(後に2007年の世界選手権で死亡)と親交を深めた。
  • 2007年、インドネシアの火山で雲に吸い上げられる恐怖を経験し、同時期にHe Jiangpingの死を知り、飛行を15年間中断。
  • 2023年、息子たちが自発的にパラグライダーを始めたことをきっかけに再開。初めて息子たちと共に飛んだ瞬間を「人生最高の思い出」と語る。
  • 2024年、100%パイロットエラーによる大事故で左鎖骨骨折、左上腕二頭筋断裂、肋骨11本骨折、脾臓破裂。失血量6リットル。
  • EMDR療法(眼球運動による脱感作と再処理)を6〜7回受け、飛行前の不安発作を克服。現在は息子たちとアルプスや南アフリカでの飛行を計画している。