
Co-op City
- 世界最大の住宅協同組合「コープ・シティ」——理想と現実の狭間で起きた住民の反乱 ニューヨーク州ブロンクス区にそびえ立つ35棟の高層アパート群、それが世界最大の住宅協同組合...
- [0:00] 灰色の高層ビル群に隠された秘密 「コープ・シティを見たとき、最初は公営住宅だと思った」。そう語るのは、かつてグレイハウンドのバスからこの団地を初めて目にした...
- しかし、当時の建築批評家たちの目にはまったく違って映っていた。ニューズウィーク誌は「コープ・シティの塔はスモッグの中に陰鬱にそびえ立ち、裕福な通勤者たちが通り過ぎるたびに...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
99% Invisible / Roman Mars
世界最大の住宅協同組合「コープ・シティ」——理想と現実の狭間で起きた住民の反乱
ニューヨーク州ブロンクス区にそびえ立つ35棟の高層アパート群、それが世界最大の住宅協同組合「コープ・シティ」だ。1960年代後半に開業したこの巨大団地は、中間層に手の届く住まいを提供するという壮大な社会実験の集大成であり、同時にその運動の終焉でもあった。99% Invisibleのプロデューサー、ケイティ・ミンゴがローマン・マーズとともに語るこのエピソードは、理想に燃えた社会主義者たち、強権的な都市計画家ロバート・モーゼス、そして自らの住まいを守るために立ち上がった住民たちの物語を通じて、住宅をめぐる「中間」のあり方を問いかける。
灰色の高層ビル群に隠された秘密
「コープ・シティを見たとき、最初は公営住宅だと思った」。そう語るのは、かつてグレイハウンドのバスからこの団地を初めて目にしたケイティ・ミンゴだ。35棟の高層ビルはすべて同じレンガ造りで、20階以上もの高さがある。バルコニーに干された洗濯物が22階の高さに見えたという彼女の記憶は、この場所が単なる建築物ではなく、無数の人生が積み重なる「住まい」であることを物語っている。
しかし、当時の建築批評家たちの目にはまったく違って映っていた。ニューズウィーク誌は「コープ・シティの塔はスモッグの中に陰鬱にそびえ立ち、裕福な通勤者たちが通り過ぎるたびに震え上がるような、あまりに遠く、喜びのない光景だ」と酷評した。この評価に対して、1978年からコープ・シティに住むダイアン・パトリックはこう反論する。「ああいう批評こそが、コープ・シティが最高の秘密であり続けている理由なんです。外観を見て判断して、そのまま通り過ぎてしまう。それ以上考えようとしないんですから」。
ダイアンが1978年に支払った入居金はたったの2,500ドル。現在も毎月約800ドルの「維持費」を払っているが、これはニューヨークのマンハッタンで小さなアパートを借りることを考えれば信じられないほど安い。彼女は「普通の人々のための場所」がどんどん消えていくニューヨークにあって、コープ・シティは稀有な「中間」の選択肢だと強調する。
社会主義者アブラハム・カジンの夢——協同組合住宅の誕生
この物語の主人公は、ロシア移民のアブラハム・カジンだ。20世紀初頭、若き社会主義者であり労働組合オーガナイザーだったカジンは、資本主義に代わる viable な選択肢として「協同組合」の理念に情熱を注いだ。歴史家ジョシュア・フリーマンによれば、カジンは「既存の資本主義社会の中で発展させられる、資本主義に代わる viable な選択肢」として協同組合を捉えていた。
カジンが特に注目したのは住宅だった。当時、衣料品労働者の組合であるアマルガメイテッド・クロージング・ワーカーズ・ユニオンのオーガナイザーだった彼は、組合員たちがロウアー・イースト・サイドの過密で不衛生なスラム長屋に住んでいる現状を憂えた。彼の考えは単純明快だった。組合が自らアパートを建設し、組合員が共同で所有する——それが協同組合住宅だ。
ただし、協同組合という概念自体は富裕層が先に考案したものだ。カジンが目指したのは、それとは異なる「労働者階級のための協同組合」だった。彼の構想では、住民が転居する際に売却できるのは出資額のみで、利益は得られない。利益を排除することで、建物の将来にわたる affordability を確保するという発想だ。組合の幹部たちは当初このアイデアに懐疑的で、カジン自身「長い間、組織内で笑いものにされていた」と振り返っている。
ロバート・モーゼスと「卵を割る」都市再開発
第二次世界大戦後、ニューヨークは深刻な住宅不足に直面していた。1949年に連邦政府が可決したアメリカ住宅法は、スラムの撤去と新しい住宅建設のための資金を提供した。ここで登場するのが、ニューヨーク市の都市計画において最も多産でありながら最も問題の多い人物、ロバート・モーゼスだ。
モーゼスは「本物のスラムを直す方法は、取り壊す以外にほとんどない」と断言し、スラム撤去委員会のトップに就任した。彼の下で大量の公営住宅が建設されたが、同時に中間層向けの住宅も必要とされていた。オーバリン大学の歴史学者アン・マリー・サンマルティーノは、ニューヨークの特殊性を指摘する。「他の都市では、貧困層向けの公営住宅と、持ち家支援による一戸建て住宅という二本立ての戦略が取られました。しかしニューヨークは違った。市は中間層を市内に留めたかったのです」。
しかし、スラム撤去と中間層住宅建設を請け負う開発業者はなかなか見つからなかった。その数少ない候補が、カジンが率いる労働組合と社会主義者たちだった。カジンとモーゼスは奇妙な協力関係を築く。両者は「スラムをより良い住宅に置き換える」というビジョンで重なっていたのだ。
1951年、カジンはユナイテッド・ハウジング・ファンデーション(UHF)を設立。既存の協同組合や労働組合、労働者階級の友愛団体の連合体として、中間層住宅の建設を本格化させる。さらに1955年にはニューヨーク州が「ミッチェル・ラマ」プログラムを創設。低金利の融資と税制優遇を提供することで、民間開発業者に中間層住宅建設のインセンティブを与えた。このプログラムは最終的に10万戸以上の中間層向け住宅を生み出すことになる。
ペン・サウス協同組合——ユートピアの代償
UHFの最初の大規模プロジェクトは、マンハッタンのチェルシー地区に建設された「ペン・サウス協同組合」だった。10棟の20階建てビルからなるこの巨大開発は、衣料品労働者が徒歩で職場に通える「都市主義的ユートピアのビジョン」の具現化だった。1962年の落成式には、ロバート・モーゼス、ネルソン・ロックフェラー知事、エレノア・ルーズベルト、そしてジョン・F・ケネディ大統領までが出席した。
しかし、この華やかな式典の裏では、別の現実が進行していた。ペン・サウスの建設のために、354戸の住宅が取り壊され、183の商店が撤去され、約2,000人の住民が立ち退きを余儀なくされたのだ。ロバート・カロの試算によれば、モーゼスは高速道路建設のために25万人、都市再開発のためにさらに25万人を立ち退かせたという。モーゼスは批判者に対して「オムレツを作るには卵を割らなければならない」という有名な言葉を残している。
立ち退かされた住民は新しい協同組合に応募できたが、多くの人は入居金を払えなかった。歴史家サンマルティーノは指摘する。「組合がスポンサーとなった非営利の協同組合は、安定した仕事と組合契約を持つ配管工や衣料品労働者には affordable でしたが、より貧しい層の労働者には手が届かなかった。貧しいスラム居住者はアフリカ系アメリカ人やプエルトリコ系であることが多く、結果として組合の協同組合はほとんどが白人で占められました」。
この時期、もう一人の有力な批判者が声を上げていた。作家で活動家のジェーン・ジェイコブスだ。彼女は「あなたたちが物理的にも道徳的にも非難している場所こそ、実際に機能しているコミュニティなのだ」と主張し、高層ビルと緑地というモダニズム建築の手法が「不毛な場所」を生み出すと警告した。
コープ・シティの建設——沼の上の35棟
1964年に閉園した遊園地「フリーダムランド」の跡地、400エーカーの土地がコープ・シティの建設地に選ばれた。もともと沼地だったこの場所は、立ち退きを必要としないという点で、ジェイコブスらへの譲歩だった。しかし、UHFが計画したのはまさにジェイコブスが嫌ったタイプの開発——通りから後退した高層ビルと広大な緑地——だった。
1968年12月、コープ・シティが最初の入居者を迎えた。数ヶ月後、ニューヨークを襲った大吹雪が、この新しいコミュニティの試金石となる。高速道路に取り残された旅行者たちを、住民たちがビルから飛び出して助け、温かい飲み物を提供したのだ。子供たちは雪合戦に興じた。この出来事は「コミュニティの創造」としてコープ・シティの神話となり、建築がコミュニティ形成の妨げになるというジェイコブスの予測を覆すものとなった。
サンマルティーノ自身もコープ・シティで育った一人だ。彼女は自転車で緑地を駆け回り、他の子供たちと遊んだ幼少期を「理想的なもの」と回想する。一方で、10代になると「退屈で仕方なかった」とも語る。モールに最初にできた店が金物屋で、10代の若者たちは「レンチを見るためだけに」そこに行ったという。つまり、ここは「子供には最高、10代には退屈な場所」——言い換えれば、まさに郊外のような場所だったのだ。
13ヶ月の家賃ストライキ——住民の反乱
カジンが1971年に死去した後、コープ・シティは崩壊の兆しを見せ始める。建設費は当初の2億3,500万ドルから3億9,100万ドルに膨れ上がり、住民の月々の負担も増加した。住民たちは建設前に約束された金額と実際の負担の乖離に怒り、UHFを「また別の悪質な大家」と見なすようになる。
さらに悪いことに、住民たちは協同組合の運営にほとんど発言権を持っていなかった。UHFのメンバーが理事会を支配し、維持費の値上げや修繕業者の選定などの決定を一方的に行っていたのだ。サンマルティーノは「UHFは事実上、政府の一部門と化していた」と分析する。
1975年、住民たちは決断する。月々の維持費の支払いを拒否する「家賃ストライキ」を開始したのだ。ただし、正確にはこれは「住宅ローン・ストライキ」だった。住民たちは小切手を集めて保管し、州との交渉の材料とした。当時、ニューヨーク市は破産の瀬戸際にあり、州も財政難に陥っていた。州はストライキ主催者に罰金を課し、建物のメンテナンスを停止したが、住民たちは自ら廊下のモップがけなどを行い、結束を強めた。
ストライキは13ヶ月間続いた。最終的に州は大規模修繕への支援を約束したが、住宅ローンそのものの大幅な軽減は認めなかった。しかし、住民たちはコープ・シティの支配権を獲得した。UHFは撤退し、その後二度と協同組合を建設することはなかった。皮肉にも、協同組合の精神の最も偉大な実証が、協同組合運動そのものを破壊したのだ。
人種の移行と中間層の維持——コープ・シティの現在
1970年代の不況とホワイト・フライトはコープ・シティにも及んだ。初期の住民は約80%が白人(大半がユダヤ系)で、約20%が有色人種だった。しかし1976年までに、入居待機リストの90%が黒人とヒスパニック系になった。1980年代には、敷地内の正統派シナゴーグが信者不足で規模を縮小する一方、ハリー・S・トルーマン高校ではアフリカ系アメリカ人研究の授業が始まり、コープ・シティは初期ヒップホップ文化の拠点となった。
しかし、サンマルティーノが強調するのは、コープ・シティが人種構成の変化を経ても「中間層のコミュニティ」であり続けたという事実だ。「人種的変化を経験する地域の物語は、暴力か放置かのどちらかであることが多い。しかしコープ・シティは違う」。1990年までに黒人が多数派となったが、中間層としての性格は維持された。
その要因の一つが、UHFが固執した「出資金」の仕組みだった。初期にはこれが有色人種の参入障壁となったが、1970年代半ばまでに黒人中間層が成長し、多くの家族が出資金を捻出できるようになった。そして、この出資金が「投資」としての意識を生み、単なる賃借人よりも地域に留まりやすくしたのだ。
現在、コープ・シティは全米最大の「自然発生的な高齢者コミュニティ」となっている。固定収入でも暮らせる affordable な住まいとして、高齢者にとって理想的な場所だ。フランク・ガレッティの両親は1981年にプエルトリコから移り住み、45年経った今もそこに住む。「投資という言葉がぴったりです。金銭的な投資だけでなく、コミュニティへの関与という意味での投資です」とフランクは語る。
まとめ
このエピソードが描き出すのは、壮大な理想が現実の複雑さに直面するときの、希望と挫折の物語だ。アブラハム・カジンの協同組合住宅という夢は、ロバート・モーゼスの強権的な都市開発と結びつくことで、中間層に affordable な住まいを提供した。しかし、その過程で多くのコミュニティが破壊され、人種的排除も生まれた。そして、コープ・シティ自体がその矛盾の象徴として、住民の反乱を引き起こし、運動そのものを終焉させた。
それでも、コープ・シティは今も15,000世帯以上の「中間」の住まいとして機能し続けている。家賃と持ち家の間、公営住宅と市場価格住宅の間、白人中間層の enclave と多民族コミュニティの間——その「間」にこそ、住宅問題を考える上での重要なヒントが隠されているのかもしれない。ニューヨークが再び住宅危機に直面する今、政府の壮大な野心がもたらした過ちと、それでもなお生み出し得た価値の両方を直視することが求められている。