
ワールドカップを二分したホーン
- ブブゼラが世界を分けた——2010年W杯を象徴する音の知られざる物語 2010年南アフリカW杯を特徴づけたのは、選手のプレーでもスタジアムの熱狂でもなく、あの耳をつん...
- [3:05] 南アフリカのW杯招致とブブゼラの登場 2004年春、スイスの小さな会議室でFIFAの歴史的な発表が行われた。2010年W杯の開催国が南アフリカに決まった...
- 当時、ブブゼラを知る者はほとんどいなかった。しかし6年後、W杯開幕戦のスタジアムに8万本のブブゼラが響き渡り、この言葉は瞬く間にスポーツ界のホットワードとなった。長さ...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
99% Invisible / Roman Mars
- ブブゼラは2010年南アフリカW杯を象徴する音となったが、その起源は1965年にサダム・マケイが自転車の警笛を改造したことに遡る
- 南アフリカのサッカーは1862年まで遅れる長い歴史を持ち、アパルトヘイト下では黒人コミュニティの抵抗と結束の場として機能した
- ブブゼラの大量普及は、マセンディン・ケダニ・スポーツ社のマーケティング戦略によるもので、特許は取れなかったが名称は商標登録された
- W杯でのブブゼラ騒音は131デシベルに達し、放送局は特殊フィルターで除去を試みるなど世界的な論争を巻き起こした
- ブブゼラをめぐる批判は「アフリカらしさ」への欧州中心主義的な攻撃という側面があり、南アフリカ側は文化的アイデンティティとして擁護した
- 起源をめぐってはシェンベ教会など複数の団体が権利を主張し、大英博物館はサダム・マケイを発明者として認定している
- スタジアムの騒音文化は鉱山労働者の道具や作業歌に由来し、政治的抵抗の手段としても機能した
- W杯後、FIFAはブブゼラを禁止したが、その音は「南アフリカだけのもの」として記憶されることになった
ブブゼラが世界を分けた——2010年W杯を象徴する音の知られざる物語
2010年南アフリカW杯を特徴づけたのは、選手のプレーでもスタジアムの熱狂でもなく、あの耳をつんざくようなプラスチック製の角笛「ブブゼラ」だった。本エピソードは、この一音しか奏でない楽器がどのようにして南アフリカのサッカー文化に根づき、世界を二分する論争を巻き起こし、そして今なお「アフリカの音」として記憶されるに至ったかを、発明者を名乗る男たちの確執、アパルトヘイト下での抵抗の象徴としての側面、そしてFIFAの商業主義との絡みを通じて描き出す。単なる騒音論争を超え、文化の真正性、植民地主義の遺産、そしてグローバル・イベントがローカルな伝統をどう消費するかという深い問いを投げかける回である。
南アフリカのW杯招致とブブゼラの登場
2004年春、スイスの小さな会議室でFIFAの歴史的な発表が行われた。2010年W杯の開催国が南アフリカに決まった瞬間、会場にはマンデラ、デズモンド・ツツ、デ・クラーク元大統領らが集結していた。アパルトヘイト下で国際スポーツ界から長年排除されてきた南アフリカにとって、この決定は「完全なる円環の完成」だったとジャーナリストのマーク・グリーソンは振り返る。歓喜の輪の中で鳴り響いたのが、当時はまだ世界が知らなかったブブゼラの音だった。
当時、ブブゼラを知る者はほとんどいなかった。しかし6年後、W杯開幕戦のスタジアムに8万本のブブゼラが響き渡り、この言葉は瞬く間にスポーツ界のホットワードとなった。長さ約60センチの射出成形プラスチック製で、鳴らせる音は変ロ音(B♭)ただ一つ。その音は「怒ったスズメバチの大群」や「苦悩するゾウの群れ」に例えられ、欧州のサッカー文化に慣れた視聴者には耐え難いものだった。欧州のスタジアムが特徴とする歌やチャントは、ブブゼラの持続的なハム音によって完全にかき消された。
テレビ放送局は対応に追われた。フランスのTF1は解説者のマイクをより背景音を拾いにくいタイプに変更し、他のネットワークは特殊なオーディオフィルターでブブゼラの音を除去しようとした。この騒音は選手のプレーから観客の騒音へと焦点を移し、ブブゼラの起源をめぐる論争に火をつけた。
南アフリカ・サッカーのルーツとアパルトヘイト下の抵抗
南アフリカのサッカー史は、イングランドでフットボール・アソシエーションが設立される前年の1862年まで遡る。ケープタウンとポート・エリザベスで既に公式試合が記録されている。このスポーツは英国の植民地支配者によって持ち込まれたが、すぐに南アフリカ人はそれを自分たちのものに変えた。サッカー史家ピーター・アレジは「植民地のゲームが、人種的に抑圧された人々によって黒人文化の柱に変貌した」と説明する。
サッカーは安価で誰でも参加でき、黒人労働者階級のスポーツとなった。アパルトヘイト政権下では、クリケットやラグビーといった白人主体のスポーツが政治的支援を受ける一方、サッカーは軽視された。そこでファンたちは「サポーターズクラブ」を結成し、資金集めや遠征の手配を行うようになる。特に黒人コミュニティのサポーターズクラブは特別な役割を果たした。政府に発言権を持たない黒人南アフリカ人にとって、クラブ内の選挙で役職に立候補し、社会的名誉と可視性を得ることは貴重な機会だった。
1960年代までに、サポーターズクラブは南アフリカ全土に広がり、試合日のスタジアムで鳴らす騒音でその存在を知らしめた。音楽、チャント、ダンス、時には相手への罵倒——これらは「非常に楽しく、娯楽性の高いもの」だった。アパルトヘイト政権は政治的反対派の集会を禁止していたが、サッカーの試合とそれに伴う騒音は、黒人政治家たちが密かに集まり、会話し、さらには破壊活動を組織する「隠れ蓑」を提供した。スタジアムは「聖域」であり、政府に反抗し、反アパルトヘイト運動の旗を掲げながら自チームを応援できる場所だった。そして、そこで一人のカリスマ的ファンが角笛を吹き鳴らし、やがて世界中に知られる音を生み出した。
「ミスター・ブブゼラ」フレディ・サダム・マケイの物語
「私は所有者であり、創設者であり、ブブゼラのパイオニアです。すべては私から始まった」。こう語るのはフレディ・マケイ、通称「ミスター・ブブゼラ」だ。彼は自らを「サダム」と呼ばせることを好む——湾岸戦争中にサッカーの試合で巨大な爆竹を鳴らし、その音が「テレビで見るイラク戦争のようだ」と言われたことに由来するあだ名だ。
サダムは南アフリカ代表と地元クラブ「カイザー・チーフス」を愛するスーパーファンで、特大の黄色いメガネとチームカラーに塗られた鉱山用ヘルメット「マカラッパ」を身につけて試合に現れる。「サッカーは私の最初の妻、あなたは二番目の妻だ」と元妻に言って離婚されたという逸話を持つほどのサッカー狂いだ。
彼のブブゼラに関する主張は、1965年の誕生日に兄からもらった自転車にまで遡る。その自転車には「フーター」(警笛)が付いていた。サダムはゴム球を外し、そのホーンを直接吹き鳴らして選手を応援した。彼はこれを「パラファラ」と呼んだ。1970年にカイザー・チーフスが設立されると、彼は自作のホーンをいくつも試合に持ち込んだ。その中には「ブギー・ブラスト」と呼ばれる長いアルミ製の棒もあったが、これは吹くだけでなく人を殴る武器にもなるため、スタジアムで禁止された。
1989年、サダムはプラスチックメーカーにブギー・ブラストのプラスチック版を依頼する。こうして生まれた新しい楽器に、彼は「ブブゼラ」と名付けた。ズールー語で「歓迎し団結する」という意味だという。彼は1992年にこの名前を考案したと主張し、70年代から90年代にかけての写真や、1999年に録音したアルバム『Vuvuzela Cellular』を証拠として挙げる。しかし、彼が試合で販売を試みたブブゼラは、なかなか普及しなかった。
大量生産と商業化——マセンディン・ケダニ・スポーツの戦略
状況が変わり始めたのは、ケープタウンの企業「マセンディン・ケダニ・スポーツ」(社名はイシコーサ語に由来)が独自のプラスチック製ホーンを大量生産し、同じく「ブブゼラ」と名付けた時だ。研究者デュエイン・ジェスロによれば、2001年にニール・ファン・スカルクヴィクとパートナーのベヴィル・バッハマンが資金を得て事業を立ち上げた。彼らは射出成形で特定のサイズと仕様のホーンを量産するアイデアを売り込んだ。
サダム・マケイはファン・スカルクヴィクに接触し、自分こそが真の発明者だと主張してビジネス契約を試みた。「彼は私に『ブブゼラ1本につき5ランドを支払う』と約束したが、一セントももらっていない」とサダムは語る。一方、ファン・スカルクヴィクは2001年にサダムと会ったことを否定している。彼は自らを発明者とは主張しなかったが、自社がブブゼラを普及させたと強調した。彼らのバージョンはより安価で安全であり、「人を殴るのに使えない」点が売りだった。
当初は販売に苦戦したが、マーケティング戦略の転換で状況は一変する。無料配布や地元クラブとの提携により、ブブゼラは南アフリカのスタジアムに急速に浸透した。デザイン自体は汎用的だったため特許は取得できなかったが、「ブブゼラ」という名称は商標登録された。そして南アフリカが2010年W杯招致を進める中、同社はこのイベントを最大限に活用する準備を整える。
同社の戦略は、ブブゼラを「本物の南アフリカの音」として位置づけることだった。サッカー関係者や政治家にブブゼラを外交的贈り物として配布し、招致の支援を集めた。FIFAが南アフリカの開催を発表した際の歓喜の輪にも、これらのプラスチック製ブブゼラが登場していた。
国際的な論争とFIFAの対応
2009年のコンフェデレーションズカップ(W杯の前哨戦)で、ブブゼラは初めて全世界のテレビ視聴者にさらされた。瞬く間に国際的な議論が沸騰する。「90分間ずっとイナゴの大群に襲われているようだ」という声がメディアを賑わせた。FIFA会長のゼップ・ブラッターは、W杯でのブブゼラ禁止を問われ、驚くべきことに支持を表明した。「それはアフリカの文化だ。我々はアフリカにいる。彼らが望む限り、彼らの文化を実践させるべきだ」。
W杯が開幕すると、ブブゼラはスタジアムの雰囲気から深夜のテレビ番組のジョークに至るまで、あらゆる場面に浸透した。放送局がノイズ除去に奔走する一方、インターネット上ではDIYの解決策が広まった——テレビの音声をパソコンに通し、特定の周波数を除去するソフトウェアを使う方法だ。選手たちも不満を漏らした。リオネル・メッシはブブゼラの騒音のせいで自チームが失点したと主張した。
南アフリカ医学ジャーナルが実施した調査では、ブブゼラの音量は最大131デシベルに達し、これは削岩機やジェットエンジンと同等の騒音レベルであり、長時間の暴露は騒音性難聴を引き起こす可能性があると結論づけられた。
文化の真正性をめぐる闘い
ブブゼラをめぐる怒りの多くは、極めて欧州中心主義的な視点から来ていたとデュエイン・ジェスロは指摘する。それは「サッカーファン文化において何が適切か」という議論であり、本質的には「アフリカらしさ」そのものへの攻撃だった。「アフリカを暗黒大陸と見なす古い考え方、アフリカの文化形態を原始的または時代遅れとする見方がそこにはあった」。南アフリカサッカー協会とファンはこれに反発し、「これが我々のスポーツの伝統であり、ファン文化の表現だ」と主張した。
一方で、南アフリカ人コメディアンのトレバー・ノアは、問題はブブゼラそのものではなく、その「 appropriation(流用)」にあると指摘した。「南アフリカでは、ブブゼラを吹くのに免許が必要な制度にすべきだ。適切なエチケットも知らずに、ランダムに吹き鳴らしてはいけない」。イングランドやスペインのファンが朝9時から吹き鳴らすのは間違っている——ブブゼラを吹くべきなのは「資格のある熟練した実践者、すなわちカイザー・チーフスとオーランド・パイレーツのサポーター」だと彼は語った。
ブブゼラは南アフリカの国民的アイデンティティの表現であると同時に、アフリカ大陸全体を代表する音としても位置づけられた。FIFAと南アフリカ組織委員会は大会を「アフリカのW杯」と銘打ち、スローガンは「アフリカの人間性を祝おう」、公式ソングも「This Time for Africa」だった。しかし、他のアフリカ諸国からの訪問者の中には「我々の地域には角笛を吹く伝統はない。これがどうしてパン・アフリカニズムを代表できるのか」と反発する声もあった。大会の「ディズニー化」がブブゼラを安っぽく見せ、その真正性への懐疑を招いた。
起源をめぐる争い——クーズーの角、シェンベ教会、そして博物館
ブブゼラの起源をめぐっては複数の主張が乱立した。メディアが取り上げた説の一つは、アンテロープの一種クーズーの角笛に由来するというもの。南アフリカには確かに先住民の角笛の伝統があるが、それが直接ブブゼラに繋がるかは議論の余地がある。
もう一つの有力な主張は、ナザレ・バプテスト教会(シェンベ教会)から来ている。同教会は毎年恒例の巡礼で「イジボム」と呼ばれる角笛を使用している。サッカーファンがブブゼラを吹き鳴らすのを見て、自分たちの角笛が生み出す聖霊が流用されたと感じたという。シェンベ教会は当初サダム・マケイが1990年代に教会を訪れ、金属製の角笛をスタジアムに持ち込めなかったためプラスチック版を模造したと非難した。サダムはこれを否定している。教会はFIFAと大会組織委員会、さらにファン・スカルクヴィクとその会社に対して法的措置を脅かし、最終的に和解に至った。
こうした起源論争の背後には、文化遺産の主張において「起源と所有権」が決定的に重要だという構造がある。真正な起源の物語なしには、文化遺産を主張することはできない。皮肉なことに、英国の国立フットボール博物館と大英博物館はともにブブゼラをコレクションに収蔵している。そして大英博物館のウェブサイトで唯一認められている発明者は、フレディ・「サダム」・マケイである。「ブブゼラは私の赤ん坊」と語るサダムの物語こそが、この楽器の最も近い「起源の物語」として認識されているのだ。
スタジアムの騒音文化——鉱山労働者と抵抗の音
エピソードの後半では、ブブゼラ以外の南アフリカのスタジアム文化が紹介される。サダムがかぶる「マカラッパ」と呼ばれるヘルメットは、1970年代にカイザー・チーフスのファンが、試合で瓶が頭に当たるのを見て「次の試合ではヘルメットをかぶろう」と考えたことから始まった。チームカラーに塗られたこれらのヘルメットは、やがてスタジアムの風物詩となる。
さらに、鉱山で使われていた手巻き式のサイレンもスタジアムに持ち込まれた。これは鉱夫たちのシフト交代を知らせる音で、ファンはこれを試合での騒音発生に流用した。これらのアイテムは、労働者階級のファンが日常生活の道具を応援に転用した例である。
最も象徴的なのは「ショショロザ」という歌だ。これはもともと鉱山で働く労働者たちが歌う作業歌で、コール&レスポンス形式でリズムを生み出し、長時間の過酷な労働のストレスを和らげるために歌われた。「ショショロザ」は「前進せよ」「次の者のために道を開けよ」という意味を持つ。この歌は1990年代に「南アフリカ第二の国歌」とも呼ばれるほど広く知られるようになり、ネルソン・マンデラ自身もロベン島の刑務所で政治犯たちと共に歌ったことで知られる。スタジアムでの騒音は、単なる娯楽や応援を超えて、アパルトヘイト下での政治的抵抗の手段でもあったのだ。
ブブゼラのその後
2010年W杯終了後、FIFAは主要トーナメントでのブブゼラを禁止した。他の主要スポーツリーグも同様の措置を取った。しかしデュエイン・ジェスロにとって、これには「銀の裏地」がある。「将来のW杯がブブゼラの美しい音に恵まれないことを嬉しく思う。その音は永遠に南アフリカのものとして残るからだ」。数ヶ月前、南アフリカ女子サッカーチームが初のアフリカ女子ネイションズカップで優勝し、空港に帰還した際、ファンたちは歌とチャントで祝福した。そこにはサダム・マケイもいて、ブブゼラを吹き鳴らしていた。騒音への苦情は一切なく、ファンはただ自分たちの望む方法で祝っていた。
まとめ
このエピソードは、一見すると単なる「うるさい笛」の話に見えるブブゼラが、実は南アフリカの植民地史、アパルトヘイト下の抵抗、グローバル資本主義による文化の商品化、そして「本物」とは何かをめぐる複雑な闘いの縮図であることを見事に描き出している。リスナーに残るのは、ブブゼラが単なる騒音ではなく、抑圧された人々が自らの声を上げる手段であり、その音が世界に認められた瞬間の誇りと、同時にその誇りが商業的に搾取されたことへの複雑な感情である。そして、サダム・マケイという一人のスーパーファンの、愛するチームへの純粋な情熱が、世界を二分する現象を生み出したという、人間味あふれる物語の力強さだ。
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