
研究者の人生を変えた「どフェチ論文」を聞きました。#443
- 研究者の人生を変えた「どフェチ論文」を聞きました。#443 本エピソードは、ゆる言語学ラジオの新企画「研究者の人生を変えたどフェチ論文」の記念すべき第一回として、愛知淑徳...
- [0:02] 新企画「どフェチ論文」の始まり 堀元が提案したこのコーナーは、研究者を招き、その人が「一番推す論文」を一本だけ持ってきてもらい、なぜそれにそこまで魅了される...
- [13:53] 老齢ザルの研究をするしかなかった理由 久保先生はもともとネズミの迷路学習と遺伝の関係を卒論テーマにしていた。ところが、卒論を始める直前に指導教授が体調不良...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
ゆる言語学ラジオ / Yuru Gengogaku Radio
研究者の人生を変えた「どフェチ論文」を聞きました。#443
本エピソードは、ゆる言語学ラジオの新企画「研究者の人生を変えたどフェチ論文」の記念すべき第一回として、愛知淑徳大学の久保(川合)南海子先生をゲストに迎え、彼女の研究者人生を決定づけた一本の論文を深掘りする内容である。久保先生が大学院入学直後に指導教員から渡されたのは、1989年に発表された老齢ザルの記憶に関する英語論文「Evidence for Task-Dependent Memory Dysfunction in the Aged Monkey」。この論文を読まなければ、あるいは別の研究テーマを選んでいたら、今の自分は存在しなかったかもしれない——そう語る久保先生の半生は、偶然と運命が交錯する研究者的サクセスストーリーであり、同時にサルを相手にした実験の過酷さと面白さが生々しく語られる。ホストの堀元見と水野太貴が、時に笑いを交えながら、研究者の「偏愛論文」に迫る。
新企画「どフェチ論文」の始まり
堀元が提案したこのコーナーは、研究者を招き、その人が「一番推す論文」を一本だけ持ってきてもらい、なぜそれにそこまで魅了されるのか、そもそもどんな内容なのかを聞くというもの。水野は「これがなければ今の研究者じゃなかったかもしれない」という論文を持ってきてもらうのが狙いだと説明する。今回のゲストである久保先生が持参したのは、英語論文「Evidence for Task-Dependent Memory Dysfunction in the Aged Monkey」。日本語に訳せば「老齢ザルにおける課題に準拠した記憶障害の証拠」となる。1989年に『Journal of Neuroscience』という脳神経科学の格式高い雑誌に掲載された実験論文だ。
老齢ザルの研究をするしかなかった理由
久保先生はもともとネズミの迷路学習と遺伝の関係を卒論テーマにしていた。ところが、卒論を始める直前に指導教授が体調不良で退任し、代わりに来た先生はなんとサルのフィールド研究者だった。実験室のネズミを見るのは初めてというその先生は「一緒に勉強しよう」と言い、学生たちは衝撃を受けた。さらに就職氷河期のまっただ中で自己分析を強いられた久保先生は、「自分を分析するぐらいならネズミを分析していたい」と考え、大学院進学を決意。しかし、指導教員から「老齢のサルの研究計画を書かないか」と誘われ、就職のためのカウンセラー志望だったにもかかわらず、その計画書で大学院に入学した。ところが入学後、臨床系のコースには登録できないと知らされ、「サルをやるしかない」状況に。指導教員がこの事態を事前に知っていたのかどうかは今も不明だが、結果的に久保先生は「振り付けられるとうまく踊れるタイプ」として、この道に没頭していくことになる。
大きな影響を受けた「始まりの論文」
久保先生にとってこの論文は「すり込み論文」であり、すべての出発点だった。大学院1年の4月、指導教員から「老齢ザルをやるしかないんだから、とりあえずこれを読みなさい」と渡されたのがこの論文である。その後、久保先生は老齢ザルをテーマにファースト論文を含む6本の論文を執筆するが、そのすべてにこの論文を引用している。つまり、この一本なしには彼女の研究は成立しなかった。この論文の新規性は三つある。第一に、それまで若いサルの脳損傷モデルでしか調べられていなかった記憶課題と脳部位の関係を、自然に老化した老齢ザルで検証した点。第二に、同じ個体で複数の課題を実施し、「これはできるがこれはできない」というパターンを明確に示した点。そして第三に、老齢ザルのパフォーマンスに大きな個体差があることをデータで示した点である。久保先生はこの第三の点に衝撃を受け、博士論文では「個体差はどこに由来するのか」をテーマに、脳神経ではなく行動方略と認知方略の観点から分析を行った。
人間の加齢認知研究への転換
老齢ザルの研究で6本の論文を書いた久保先生だが、それだけでは就職できなかった。日本で老齢ザルの心理実験を行っている研究者は当時わずか3人しかおらず、ポストは極めて限られていた。霊長類研究所の上司や夫から「老齢のサルをやっていたんだから、人間の高齢者で研究したらいいだろう」と言われ、人間の認知実験に転向する。この決断について久保先生は「研究者の興味と就職は結びつかないことが普通で、いかに新しく適応するかが大事」と語る。実際、老年心理学の分野に移ってからは、高齢者の認知研究や認知障害のある子どもたちのプロジェクトに関わるなど、芸風が広がり、ようやくポストを得ることができた。ただし、その根底には実験心理学で培われた「研究人格」が生きており、サル実験で身につけた忍耐力や実験設計のスキルが今も役立っているという。
実験の準備だけで2ヶ月——サルとの格闘
老齢ザルの実験は想像を絶する忍耐を要する。例えば「ノンマッチング・トゥ・ポジション」という課題——右にエサの入った箱を見せたあと、左を選べば正解というルール——をサルに教えるだけで2ヶ月かかる。サルは人間のように言葉で指示を伝えられないため、何百回、何千回と試行を繰り返し、やっとルールを理解する。しかも学習系の実験は毎日続けなければならず、休めば忘れるのではないかという脅迫感に苛まれる。久保先生は「動物実験をやってよかったことは、気が長くなったこと」と笑う。実際、子育てにおいても「トイレトレーニングなんて、いずれできるようになる」と鷹揚に構えられるようになったという。また、サルは人間の想像を超える行動をする。実験器具はしょっちゅう壊され、特にプラスチック製のカップはすぐに引き裂かれてしまう。そこで見つけた最強のカップは、オフィス用コーヒーサーバーの白いカップ部分。サイズが大きくて柵を通らず、強度もあるため、何年も使い続けられたという。こうした「ホームセンター情報」は研究者コミュニティで共有され、村作りやDIYの世界と共通するノウハウの世界があることが堀元の経験からも語られる。
後から読み返して実感する「すごさ」
久保先生は今回、約25年ぶりにこの論文を読み返したという。最初に読んだ時はその凄さが全くわからなかったが、後になって「この論文がなければあの論文もこの論文も生まれなかった」と気づいたと語る。自分の脳内に研究の系譜を整理する「図書館」ができて初めて、この論文がその後の十数年にわたる老齢ザル研究の発端だったと理解できたのだ。堀元も同様の経験を語る。学部生の時に読んだ強化学習の論文が、後にAlphaGoが人間を凌駕する世界の始まりだったと知った時、同じ衝撃を受けたという。久保先生は「同じ論文でも、自分の知識や価値観が膨らむことでより深く理解できる」と述べ、この現象を「プロジェクション」という概念で説明する。自分が研究してきたプロジェクション・サイエンスの知見が、まさに自分自身の経験に当てはまった瞬間だった。
どフェチ論文の面白さと今後の展望
水野はこの企画の魅力を「研究者の概論的な話ではなく、その人のフェチが出る話が聞けること」と総括する。言語学者に言語学の概論を頼んでも、どうしても「補奏された部分」しか出てこないが、一番好きな論文や博士論文の話を聞くのが最も面白いという。堀元はこの企画の直接的なきっかけとして、最近出版された書籍『博士が愛した論文——研究者19人が語る偏愛論文アンソロジー』を紹介する。ただし、この本は自然科学系の研究者ばかりで、心理学、社会学、経済学、言語学、文学からの寄稿がないと久保先生は指摘。ゆる言語学ラジオとしては、そうした人文・社会科学系の「偏愛論文」も積極的に取り上げていく方針を示した。今後の展開が期待されるコーナーである。
まとめ
このエピソードは、一本の論文が研究者の人生をいかに方向づけるかを、久保先生の半生を通して描き出した。偶然の積み重ね——指導教員の交代、就職氷河期、カウンセラー志望の挫折——が、結果的に彼女を老齢ザル研究の第一人者にした。そして、その原動力となったのが、大学院入学直後に渡された一本の論文だった。サル実験の過酷さやユーモラスなエピソードを交えながら、研究者の「偏愛」がどのように形成されるのかを、聞き手は追体験できる。研究の世界に興味がある人にとってはもちろん、自分の「人生を変えた一冊」を考えさせられる内容でもある。
要点
- 久保先生の研究者人生を決定づけたのは、1989年発表の老齢ザルの記憶に関する論文「Evidence for Task-Dependent Memory Dysfunction in the Aged Monkey」である。
- この論文の新規性は、(1)自然老化したサルでの検証、(2)同一個体での複数課題比較、(3)個体差のデータ提示——の三つにあり、特に個体差に着目したことが久保先生の博士論文のテーマにつながった。
- 久保先生はもともとカウンセラー志望だったが、指導教員の誘いと大学院の制度上の制約から、結果的に老齢ザル研究に没頭することになった。
- 日本で老齢ザルの心理実験を行っていた研究者は当時わずか3人しかおらず、6本の論文を書いても就職できなかったため、人間の高齢者認知研究に転向した。
- サルに記憶課題を教えるだけで2ヶ月かかり、実験器具は頻繁に壊されるなど、動物実験には想像以上の忍耐と創意工夫が必要だった。
- 久保先生は「老化は新しい適応の過程」と捉え、サルが加齢に伴い身体的な定位などの方略で記憶を補完することを明らかにした。
- この企画は、研究者の「偏愛論文」を掘り下げることで、概論では得られないその人の研究観や人生観に迫ることを目的としている。