
専門家と「プロジェクション」を語り尽くす1時間 #435
- 専門家と「プロジェクション」を語り尽くす1時間 #435 概要 このエピソードは、認知科学の概念「プロジェクション」を専門家である久保(川合)南海子先生を迎えて深掘りした...
- [0:02] プロジェクションとは何か——数字くじから見える心の働き 冒頭、堀元が前回のエピソードで触れたフィリピンの「数字くじ」の話から、プロジェクションの本質が語られ...
- 久保先生はこの分析を認めつつ、オタク文化における「キャラクターの誕生日」を例に挙げる。架空のキャラクターに設定された誕生日は、ただの数字にすぎない。しかしオタクはその日を...
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ゆる言語学ラジオ / Yuru Gengogaku Radio
専門家と「プロジェクション」を語り尽くす1時間 #435
概要
このエピソードは、認知科学の概念「プロジェクション」を専門家である久保(川合)南海子先生を迎えて深掘りした回である。プロジェクションとは、ある対象Aをまったく別のものDとして当てはめて捉える心の働きであり、推し活から陰謀論、詐欺、さらには科学や芸術に至るまで、人間の認知活動の根底にある普遍的なメカニズムだというのが本編の中心テーゼ。ホストの堀元見と水野太貴は、自身の「プロジェクション好き」を自覚しながら、この概念の射程の広さと奥深さに圧倒されていく。会話は終始軽妙で、専門家とホストの間で「プロジェクション」をめぐる事例が次々と飛び出し、学術的な議論と雑談が自然に行き来する、ゆる言語学ラジオらしい知的興奮に満ちた回となっている。
プロジェクションとは何か——数字くじから見える心の働き
冒頭、堀元が前回のエピソードで触れたフィリピンの「数字くじ」の話から、プロジェクションの本質が語られる。フィリピンでは、二桁の数字を当てる単純なくじが日常に根付いており、人々は当選番号や誰がどの番号で当たったかを頻繁に話題にする。堀元はこれを「現実世界にプロジェクションを促すための舞台装置」だと指摘する。数字くじがあることで、人々は日常にあふれる数字(誕生日、車のナンバー、時計の数字など)に意味を見出し、それがコミュニケーションを活性化させるというのだ。
久保先生はこの分析を認めつつ、オタク文化における「キャラクターの誕生日」を例に挙げる。架空のキャラクターに設定された誕生日は、ただの数字にすぎない。しかしオタクはその日を実際に祝い、ケーキを用意し、SNSでお祝いの投稿をする。これは「現実には何も起きていない日」に、自分自身の認知を投影している行為であり、まさにプロジェクションそのものだという。久保先生自身も「ガチオタ」であり、中学生の頃から漫画やアニメのキャラクターの誕生日をすべて覚えていたと告白する。
ここで重要なのは、プロジェクションが「余白」を必要とする点だ。数字や色のように、具体的でありながら抽象的なものほど、多様なプロジェクションを受け入れやすい。逆に、具体的すぎるものは余白が狭く、プロジェクションのバリエーションが限られる。この「余白の広さ」が、プロジェクションの面白さと可能性を決めるというのが、久保先生の主張である。
概念推しとプロジェクションの多様性
堀元は、プロジェクションの対象として「数字」や「色」のような抽象的なものの有効性を強調する。アイドルのメンバーカラーと同じ色のグッズを買うファンは、その色に自分なりのプロジェクションをしている。しかし、同じ色でも、異なるグループの異なるメンバーを推すファンが同じ商品を買う可能性がある。つまり、一つの色に対して複数のプロジェクションが共存しているのだ。
この議論から、堀元自身の「紫色のリュック」の話に発展する。堀元は自身のメンバーカラーが紫であることを意識して紫色のリュックを愛用しているが、同じリュックを伊藤詩織氏(学歴詐称で話題になった人物)も背負っていたという。つまり、街中でこのリュックを見た人は、堀元を推しているのか、伊藤氏を推しているのか、あるいは単に紫色が好きなのか——見る側の知識やイメージによって、同じ対象にまったく異なるプロジェクションが行われる。久保先生はこれを「商品開発にプロジェクションの視点は結構大事」と評し、マーケティングの現場でもこの視点が求められていると語る。
さらに、水野が「水色の靴」に言及する。堀元のリュックの近くに置いてあった水色の靴は堀元のものだが、水野の名前「水野」から連想して「水色=水野のメンバーカラー」とプロジェクションする人もいるかもしれない。堀元は「ちょっとエッチな匂わせ」と冗談交じりに応じるが、久保先生は「一つの靴と鞄を見ても、プロジェクションする人からすると情報がめちゃくちゃあって、毎日が楽しい」と総括する。
擬人化とプロジェクションの純度
堀元は、自身が「駅を見て個性を感じる」タイプのプロジェクターであることを告白する。北海道の岩見沢駅を「お金持ちの上品なマダム」と例えたり、ねじれたビルを「いけすかないインテリメガネ」と見立てたりする。水野も漢字の字形にプロジェクションする癖があると明かし、「細い」という漢字が実際には横長で太い形をしていることへの違和感や、「鬱」の字の不安定なバランス感覚について熱く語る。久保先生は、こうした「字のイメージ」に関する認知科学的な実験の可能性に興味を示す。
ここで重要な概念として「プロジェクションの純度」が登場する。堀元は、商業的にプロジェクションを誘導するために作られたもの(クリスマスのイルミネーションや感動ポルノなど)にプロジェクションするのは「純度が低い」と主張する。一方、ジャンクションや工場、団地など、人間がプロジェクションすることをまったく想定していない対象にプロジェクションするのは「純度が高い」。なぜなら、そこには「人生の主導権を自分が握る」という能動性があるからだ。
この観点から、堀元は写真家の大山健さんの作品を高く評価する。大山さんは、団地やジャンクションなど「干渉されるために作られていないもの」に独自のプロジェクションを行い、それをキャプションとして言語化している。堀元は「大山さんは世界とプロレスしている」と表現し、およそ戦う相手がいない場所に対して自ら受け身を取り、楽しんでいる姿勢を称賛する。
堀元はプロジェクションが好き——類推とアブダクションの関係
久保先生は、堀元が「めちゃくちゃ類推(アナロジー)している」と指摘する。類推とは、まったく異なるAとBの間に構造的な共通性を見出す心の働きであり、これもプロジェクションの一種だという。例えば「開けない夜はない」という言葉を人生に当てはめて「どんな暗い時期も必ず明るくなる」と解釈するのは、類推でありプロジェクションでもある。
さらに、アブダクション(仮説推論)もプロジェクションと密接に関わる。アブダクションとは、不思議な事象Aに対して「Bという理由があれば合理的に説明できる」と仮説を立てる推論形式だ。団地を見て「これは少女なんじゃないか」という仮説を立て、その仮説に合うように団地の特徴を解釈していく——これがプロジェクションの典型的なプロセスだと久保先生は説明する。
堀元は自身のことを「たとえ芸人」と自認しており、日常的にアナロジーを意識して仕事をしている。久保先生の指摘を受けて「じゃあプロジェクション芸人ですよ」と応じ、水野も「ゆるプロジェクションラジオに変えますか」と乗る。堀元は「番組名は変えないけど、実質プロジェクションラジオでしょうね」と認める。
また、堀元は「プロジェクション不全」な例え話を収集する趣味があると明かす。量子コンピューターの解説書で「電子はエネルギー順位の低いところから埋まる。これはマンションに例えるとわかりやすい。マンションも下の方が外に出るのに早いから下から埋まる」と書いてあったが、実際のタワーマンションは上の階から埋まるため、この例えは成立していない。堀元はこうした「失敗した例え」を見つけると嬉しくなってメモするという。久保先生は「プロジェクション不全な状態に面白みを感じる」と理解を示す。
プロジェクションの光と影——陰謀論からモノマネまで
プロジェクションには良い面だけでなく、悪い面もある。久保先生は著書『イマジナリー・ネガティブ』で、陰謀論や霊感商法、オレオレ詐欺などに人々がハマるメカニズムをプロジェクションの観点から解説している。少ないヒントをもとに「このようなモデルになっているはずだ」とプロジェクションした結果、現実とは異なる整合性のある世界が構築され、そこから抜け出せなくなる。問題は「プロジェクションの剣を他人に握らせている」ことにあると久保先生は指摘する。
堀元はこの議論をさらに発展させ、悪口やあだ名もプロジェクションの一種だと論じる。岸田文雄元首相に「増税メガネ」というあだ名をつける行為は、その人に対するイメージを別の言葉で言い換えて当てはめるプロジェクションであり、同時に「世界の序列を言葉で作り変える」行為でもある。悪口には「お前のルールの序列の並べ方をしないぞ」という意思表示が込められているという。
さらに、モノマネもプロジェクションの一種だと久保先生は指摘する。学校の先生のモノマネをするのは、普段は逆らえない相手を笑いの対象にすることで序列を変える行為だ。この点で、チャップリンがヒトラーをモノマネしたのと同じ構造がある。堀元はすぐに「またプロジェクションしてる」と反応し、寺田寅彦のエッセイ「漫画と科学」を引き合いに出して「科学も漫画も、現実の複雑さから特定の特徴だけを切り出して単純化する営みであり、同じプロジェクションだ」と論じる。
プロジェクションは検証できるのか——枠組みとしての価値
エピソードの終盤、水野が核心的な疑問を投げかける。「何でもかんでもプロジェクションと言えてしまうのではないか。それでは科学的な価値がどこにあるのか」。久保先生は、プロジェクションを提唱した鈴木宏昭先生の立場を説明する。プロジェクションは「一つの考え方の方向性」であり、細かく検証する理論というよりは、物の見方として持っておくための枠組みだという。
ただし、プロジェクションがまったく検証不可能なわけではない。身体性に関わるプロジェクションは実験的に検証できる。例えば、無地のクッキーにVRゴーグルでチョコレートクッキーの映像を投影すると、実際に味の感じ方が変わるという実験や、ゴム製の手の模型を自分の手のように感じる「ラバーハンド錯覚」の実験などが挙げられる。久保先生自身はもともと「ゴリゴリの実験心理学者」で、老齢の猿を対象にした実験論文を多数書いてきた経歴を持つ。その上で、実験では検証しきれない部分もプロジェクションという概念に含めていきたいと語る。
また、歴史的な事例として「踏み絵」もプロジェクションの行動実験だと指摘する。キリシタンにとって、キリストの彫られた木の板は「ただの木の板」ではなく、信仰の対象が投影された神聖なものだ。だから踏めない。しかし後には「心の中でキリストを持っていれば踏んでもいい」という解釈が生まれ、踏んだ後に祈りを捧げることでプロジェクションを再調整するようになったという。
まとめ
このエピソードの最大の収穫は、プロジェクションという概念が持つ「説明力の広さ」と「実用性」を実感できたことだ。数字くじから推し活、陰謀論、モノマネ、科学、芸術に至るまで、人間の認知活動のほとんどがプロジェクションというレンズを通して見ると一貫して理解できる。特に印象的だったのは、堀元が「プロジェクションの純度」という基準を提示した点だ。商業的に誘導されたプロジェクションではなく、自らの能動性で世界に意味を見出すことの価値を強調したこの議論は、現代の情報社会を生きる私たちにとって示唆に富む。久保先生が「自分で世界を意味付けていけるという働きが自分たちにもあるんだということを知ってもらいたい」と語ったように、プロジェクションは「世界の面白がり方」を自らデザインするための強力なツールなのだ。
要点
- プロジェクションとは、ある対象Aをまったく別のものDとして当てはめて捉える心の働きであり、推し活から陰謀論まで人間の認知活動の根底にある普遍的なメカニズムである
- フィリピンの数字くじは、日常にあふれる数字に意味を見出すプロジェクションを促す「舞台装置」であり、コミュニケーションを活性化させる
- プロジェクションには「余白」が必要で、数字や色のように具体的でありながら抽象的なものほど多様なプロジェクションを受け入れやすい
- 商業的にプロジェクションを誘導するために作られたものにプロジェクションするのは「純度が低く」、ジャンクションや工場など人間がプロジェクションすることを想定していない対象に能動的にプロジェクションするのは「純度が高い」
- 類推(アナロジー)と仮説推論(アブダクション)はプロジェクションの重要な構成要素であり、科学や芸術の創造的営みもプロジェクションの一種と見なせる
- プロジェクションは良い面だけでなく、陰謀論や霊感商法、オレオレ詐欺など悪い面もあり、「プロジェクションの剣を他人に握らせるな」という戒めが重要
- プロジェクションは細かく検証する理論というよりは「物の見方として持っておく枠組み」だが、身体性に関わるものはVR実験などで検証可能である