
なぜ「世界記録が破れた」と言えないのか?#439
- なぜ「世界記録が破れた」と言えないのか?——自他交替と反使役化の深遠な世界 本エピソードは、ゆる言語学ラジオの全国ツアー「初ゆるし」札幌公演の模様を収録したもので、ホスト...
- [2:56] 自他交替の日英比較——同じ現象、異なる仕組み 堀元がまず提示したのは、日本語と英語における自他交替の基本的な違いである。日本語では「壊す」が「壊れる」に、「...
- ところが英語では、このような語形変化を伴う自他交替はほとんど見られない。水野が指摘するように、「壊す」に相当する"break"が"breakarell"のように変化するこ...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
ゆる言語学ラジオ / Yuru Gengogaku Radio
なぜ「世界記録が破れた」と言えないのか?——自他交替と反使役化の深遠な世界
本エピソードは、ゆる言語学ラジオの全国ツアー「初ゆるし」札幌公演の模様を収録したもので、ホストの堀元見と水野太貴が、日本語と英語における「自他交替」(他動詞と自動詞の対応関係)の不思議な現象を掘り下げていく。一見すると些細な文法の「バグ」のように見える「世界記録が破れた」と言えない問題から出発し、人間が世界をどう捉えているかという認知言語学の深い洞察へと至る、知的興奮に満ちた回である。会場の観客を前にしたライブ収録ならではの軽妙な掛け合いと、言語学者が「大興奮する」という理不尽な現象への探究心が、終始軽快なテンポで展開される。
自他交替の日英比較——同じ現象、異なる仕組み
堀元がまず提示したのは、日本語と英語における自他交替の基本的な違いである。日本語では「壊す」が「壊れる」に、「破る」が「破れる」になるように、動詞の後ろに何かが付加されることで他動詞が自動詞に、あるいはその逆に変化する。これは「破る」に「エール」(「れる」の音変化)がついて「破れる」になるといった具合だ。
ところが英語では、このような語形変化を伴う自他交替はほとんど見られない。水野が指摘するように、「壊す」に相当する"break"が"breakarell"のように変化することはない。英語の特徴は、同じ語形のまま自動詞と他動詞の両方として機能する点にある。"open"がその典型で、「ドアを開ける」の意味でも「ドアが開く」の意味でも使える。堀元は、日本語にも「開く」という数少ない同型の例外があることを補足した。つまり、日本語は「語形変化によって」自他を区別し、英語は「同じ形のまま文脈で」自他を区別するという、根本的な設計思想の違いがここにある。
しかし、ここでさらに奇妙な共通点が浮かび上がる。水野は「紙を破る」と「紙が破れる」の対応は日本語でも英語でも成立するが、「世界記録を破る」を「世界記録が破れる」と言えないのは日本語も英語も同じだと指摘する。英語でも"Someone broke the world record"は言えても"The world record broke"は言えない。一方で、"He broke the vase"は"The vase broke"とできる。つまり、「壊す/壊れる」タイプの動詞ペアは日英で共通の振る舞いをするのに、「破る/破れる」という同じ語形でも、対象が「紙」か「世界記録」かで自動詞化の可否が変わるのだ。この「共通の理不尽」こそが、言語学者を興奮させる核心である。
反使役化——謎を解くキーワード
この現象を説明するために、水野は「反使役化」という専門用語を導入する。反使役化とは、「紙を破る」が「紙が破れる」になるような変化のことで、単に主語が変化したことを述べる以上の意味を持つ。重要なのは、この変化が「主語の内的な性質ないし内的な活動が誘因となって起こる自発的な変化」を指している点だ。
水野は、ある研究者(影山太郎)の説明を引用しながら、反使役化が成立する条件を次のように説明する。紙が破れるというのは、人間が全くいなくなった世界(堀元が言う「ドクターストーン基準」の世界)で、紙が何百年も放置された結果、自然に破れるという状況を想定できるかどうかに関わっている。紙は経年劣化で自然に破れる性質を持つから「紙が破れる」と言えるが、世界記録は人間が関与しなければ決して「破れる」ことはない。だから「世界記録が破れた」とは言えないのだ。
この説明は、堀元に「アリストテレスの目的論的自然観」を連想させる。アリストテレスは「種は木になりたいという欲求を持っているから木になるのだ」と説いたが、それと同じように、紙には「破れる」という潜在的な性質が備わっていると考えるわけだ。水野はこの指摘を「深いインサイトだ」と評価し、単なる茶化しではないと述べている。
主体が見えない「脱使役化」——日本語特有の現象
反使役化とは別に、日本語には「脱使役化」という現象が存在する。これは英語には見られない、日本語母語話者にとっては馴染み深い現象だ。脱使役化の典型例として、水野は「大金が儲かった」「予算案が決まった」「庭に桜の木が植わった」などを挙げる。
これらの文の特徴は、動作主(誰が儲けたのか、誰が決めたのか、誰が植えたのか)が明示されていない点にある。反使役化が「主語の自発的な性質」に基づくのに対し、脱使役化は「単に主体が不特定であること」だけを述べている。つまり、「大金が儲かった」は「お金が勝手に増える性質を持っている」という意味ではなく、「誰かはわからないが、ある人が儲けた状態にある」という事実だけを伝えているのだ。
堀元が「お金は寂しがり屋だから仲間を求めて増える」という疑似科学的なマネー本の話を持ち出すと、水野は「そういう薄っぺらい知識は信じない方がいい」と切り返す。このやり取りからも、脱使役化が「ものの性質」ではなく「主体の不在」に焦点を当てていることが明確になる。
「押ささる」の本質——結果状態とテリシティ
ここから話題は、北海道方言などで見られる「押ささる」「干ささる」といった表現に移る。水野は、言語学者が動詞を「行為」「変化」「結果状態」の3ステップに分解して考えるモデルを紹介する。例えば「割る」は行為をして変化を起こし、結果状態(割れた状態)までを記述する動詞だが、「叩く」は行為しか記述しておらず、変化の含意がない。だから「叩く」には「叩かれる」のような自動詞形が存在しないのだ。
この分析を応用すると、北海道方言の「押ささる」の本質が見えてくる。「押す」という動詞は通常、結果状態を含意しない。しかし、ボタンを押せばボタンは凹むという結果状態が生じる。だから「ボタンが押ささっている」と言える。一方、普通の壁を押しても壁に変化は起きないから「壁が押ささっている」とは言えない。ただし、柔らかい粘土状の壁で手形がつくような場合は言えるかもしれない。
水野はさらに、この現象を「テリシティ」(限界性)という概念で説明する。テリシティとは、動作に「ここまでやったら終わり」という限界があるかどうかを示す概念だ。「10分で押した」と言えるかどうかがテストになる。スーパーのカートを押す場合、「10分でカートを押した」とは言いにくい(どこまで押せば終わりか決まっていない)が、「10分で重いベッドを壁際まで押した」は言える。つまり、テリック(限界性を持つ)な動詞だけが「押ささる」形を取れるのだ。
自動詞でも言える「~さってる」——方言の広がり
さらに興味深いのは、この「~さってる」形が他動詞だけでなく自動詞にも使える場合があることだ。水野は、堀元の父親(北海道方言話者)から聞いた具体例として、エレベーターが全て上の階に行ってしまった状況で「エレベーターが上がらさってる」と言えるという話を紹介する。会場でアンケートを取ると、北海道方言話者でなくとも容認する人が一定数いたという。
また、ガラスの壁にヒビが入った状態を「壁が押ささってる」と言えるかどうかは、話者によって判断が分かれた。堀元は「言えない」と感じたが、他の参加者は「言える」と答えた。これは、同じ「結果状態」という概念でも、何を「結果」と見なすかの認知的な線引きが個人や地域によって異なることを示している。
さらに歴史的な観点から、夏目漱石の『坊っちゃん』に「大きな印の押さった証文」という用例があることが紹介される。印鑑を押せば結果が明確に残るから、この「押さる」は脱使役化として成立する。つまり、現代の標準語では使われなくなった表現でも、過去には存在したということだ。
脱使役化の地域差——方言ごとに異なる許容ライン
水野は、脱使役化の許容範囲が方言によって異なることを強調する。北海道方言では「洗濯物が干ささっている」のように、位置変化を伴う動詞でも脱使役化が可能だが、東京方言などではこれが許容されない。しかし、これは「北海道方言が劣っている」という話では全くない。単に「結果状態」と見なす範囲の線引きが異なるだけだ。
この議論から浮かび上がるのは、人間の認知が「自然に起こる変化」と「人間の意図による変化」を無意識のうちに区別しているという事実である。紙が自然に破れるかどうかなど、物理的には些細な違いに過ぎない。しかし、言語の運用レベルでは、この違いが明確に区別されている。水野は、黒島先生が以前の回で紹介した「自他交替の言語地図」の話を引き合いに出し、自然に起こる変化(コール)の方が人為的な変化(コーラス)よりも語形が短い傾向があるという通言語的な現象も、同じ原理に基づくのではないかと示唆する。
堀元はこの点を「人間の認知はよっぽど『人』が大事なんだな」と総括する。冷蔵庫が普及した現代では「凍る/凍らす」の区別を意識することは少ないが、もっと昔の人々にとっては、ある変化が自然に起こるものか人為的に起こすものかは死活問題だった。その名残が、現代の言語表現に刻まれているというわけだ。
まとめ
このエピソードは、一見些細な文法現象から出発して、人間の認知の深層にまで迫る知的冒険だった。日本語と英語の比較、反使役化と脱使役化の区別、テリシティの概念、方言差の分析と、多層的な議論が展開されたが、それらはすべて「人間は世界をどう捉えているか」という一貫した問いに収束する。特に、北海道方言の「押ささる」を巡る議論は、言語学の抽象的な概念が実際の言語使用とどう結びつくかを生々しく示しており、会場の臨場感も相まって非常に印象的だった。言語学の「二歩くらい手前」の知識を提供するという番組のコンセプトを、見事に体現した回と言える。
要点
- 「世界記録が破れた」と言えない理由は、反使役化が「主語の自発的な性質」に依存するため。世界記録は人間が関与しなければ自然に「破れる」ことがない。
- 日本語は語形変化で自他を区別するのに対し、英語は同じ語形のまま文脈で区別するという根本的な違いがある。
- 反使役化(自然に起こる変化)と脱使役化(主体が不特定)は別の現象であり、脱使役化は日本語に特有で英語には見られない。
- 北海道方言の「押ささる」は、動詞が結果状態を含意するかどうか(テリシティ)が使用条件となる。
- 同じ脱使役化でも、何を「結果状態」と見なすかの許容範囲は方言によって異なり、優劣ではなく線引きの違いである。
- 言語表現の背後には、人間が「自然に起こる変化」と「人為的な変化」を無意識に区別しているという認知的な原理が働いている。
- 夏目漱石の『坊っちゃん』にも「押さる」の用例があり、歴史的に見ても脱使役化の許容範囲は変動してきた。