
スティーブ・バルマー インタビュー
- スティーブ・バルマーが語るマイクロソフトの真実:34年の軌跡と教訓 Acquiredのホスト、ベン・ギルバートとデイビッド・ローゼンタールが、伝説的な元マイクロソフトCE...
- [0:00] 導入:バルマーとの対談の舞台裏 ベンとデイビッドは、バルマーが前日に送ってきたパワーポイントの資料に驚かされる。バルマーは「ビジネスの仕組みについて考えてき...
- [7:24] IBMとの運命的な出会いとDOS契約 1980年当時、IBMは「太陽であり、月であり、星」だった。メインフレームからソフトウェア、サービスまで全てを自社で手...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal
スティーブ・バルマーが語るマイクロソフトの真実:34年の軌跡と教訓
Acquiredのホスト、ベン・ギルバートとデイビッド・ローゼンタールが、伝説的な元マイクロソフトCEOであり、現在はLAクリッパーズのオーナーであるスティーブ・バルマーを迎えた約2時間半の対談。バルマーは自ら用意したパワーポイントの資料を片手に、マイクロソフトの創業期からIBMとの運命的なDOS契約、エンタープライズ事業の構築、モバイルと検索での失敗、そしてCEO退任の決断に至るまで、34年にわたる在籍期間を赤裸々に語った。本エピソードの核心は、バルマーが「ラッキー」と認めるIBMとの契約から始まり、Windowsという圧倒的なプラットフォームを武器にしながらも、その成功が逆に新たな波への適応を難しくしたという逆説にある。彼の語り口は率直で時にユーモアを交え、自己批判も厭わない。
導入:バルマーとの対談の舞台裏
ベンとデイビッドは、バルマーが前日に送ってきたパワーポイントの資料に驚かされる。バルマーは「ビジネスの仕組みについて考えてきたことをまとめた」と語り、自ら積極的に議論の枠組みを提供した。バルマーの現在の純資産は2014年のCEO退任時の200億ドルから1300億ドルにまで成長しており、これは事実上一つの投資判断——マイクロソフト株をほぼ全て持ち続けたこと——によるものだ。ベンは「創業者でもなく、もはやCEOでも社員でもない人物がこの水準に達するのは極めて稀」と指摘する。バルマーはマイクロソフトのエピソードを聴いた上で「いくつか考えがあって」この対談を引き受けたという。
IBMとの運命的な出会いとDOS契約
1980年当時、IBMは「太陽であり、月であり、星」だった。メインフレームからソフトウェア、サービスまで全てを自社で手がけ、コンピュータ業界の絶対的な支配者だった。バルマーが入社した直後、IBMから「PCを作りたい」と打診があり、オペレーティングシステムの提供を求められた。当時のマイクロソフトはOS事業を営んでおらず、CP/MというOSをApple IIで動かすためのカードを販売していたに過ぎなかった。
IBMは当初、デジタルリサーチ社のゲイリー・キルドールからCP/Mをライセンスしようとしたが、キルドールは秘密保持契約にサインしなかった。その隙に、マイクロソフトはシアトル・コンピュータ・プロダクツという地元企業が持っていたCP/Mクローンを45,000〜49,000ドルで買収。これをIBMにライセンスした。バルマーは「我々は半値で買って、10倍、20倍で売れると思った。実際はそれ以上だった」と振り返る。
この契約の真の天才性は「非独占契約」にあった。IBMは業界標準部品を使うという方針を採用しており、マイクロソフトが他社にもOSを販売することを認めたのだ。バルマーは「IBMは自分たちのBIOS(基本入出力システム)で保護されていると考えていた。しかし当時はソフトウェア産業自体が存在しなかった」と説明する。結果的に、すべてのアプリケーション開発者がDOSをターゲットにすることで、マイクロソフトが「統合のポイント」となった。バルマーはこの取引を「歴史上最大のビジネスディール」と評しつつ、「ラッキーは偉大な企業の創造に重要だ」と謙虚に付け加える。
OS/2とWindows:IBMとの複雑な関係
IBMとの協業はOS/2という次世代OSの共同開発に発展した。バルマーは「16週間で16回も東海岸に出張した」と当時の過酷さを語る。フロリダやニューヨークへ夜行便で飛び、終日会議をして夜便で帰宅する日々。さらにプレゼンテーションマネージャー(GUI)の開発は英国で行われ、テキサスではデータベースと通信機能を担当するという、まるでボーイングのような分散開発体制だった。
この間、マイクロソフトはWindowsの開発も並行して進めていた。バルマーは「Windowsは我々の計画だった。IBMにはWindowsを売り込もうとしたが、彼らは抵抗した」と明かす。IBMを「熊」と呼び、「熊に乗り続けなければ踏みつぶされる」という危機感があった。1990年5月、IBMは一方的に協業を解消する。バルマーは妻とランニング中にウォールストリートジャーナルでその記事を目にした。「IBMが我々を離婚したんだ」と彼は表現する。
この時点でマイクロソフトは10億ドル規模の企業になっていたが、IBMと比べれば「小物」だった。エンタープライズ(企業向け)市場でのプレゼンスは皆無で、Windowsはまだ640KBのメモリ制限を突破できていなかった。バルマーは「怖さと同時に活力が湧いた」と当時の複雑な心境を語る。
エンタープライズ事業の構築:バルマーの最大の功績
IBMとの決別後、バルマーは自ら「エンタープライズ事業をどうやって作るか考えよう」と名乗り出た。ビル・ゲイツの情熱はアプリケーションとWindowsのユーザー体験にあり、エンタープライズは彼の得意分野ではなかった。バルマーは「それは間違いなく真実だ」と認める。
鍵となったのは「エンタープライズアグリーメント」というライセンスモデルの発明だった。当初は「セレクトライセンス」と呼ばれる自主申告方式だったが、問題があった。アップグレード版が新規ライセンスの半額以下だったため、顧客が増えなければ収益が半減する構造だったのだ。そこで「3年間、1台あたり定額を支払えば、すべてのアップグレードを受けられる」というモデルを考案。さらに「オールユーキャンイート」ライセンスでは、従業員数で料金を決め、全ソフトウェアを使い放題にした。
バルマーは「エンタープライズに売るには『安心感』を提供しなければならない。それは一種の保険だ」と説明する。ソフトウェアの限界費用はゼロであり、顧客が今使っていない機能も含めて提供することで、競合他社の参入を防ぐ戦略だった。このモデルは後にクラウド時代のサブスクリプション型ビジネスの先駆けとなった。
しかし、マイクロソフトが真のエンタープライズ企業と認められたのは2000年代後半になってからだ。バルマーは「お客様から『あなたはエンタープライズ企業じゃない』と言われ続けた。2005年でもそうだった」と振り返る。OracleやIBMが支配する市場で、信頼を得るには長い時間が必要だった。
「Developers, Developers, Developers」の真実
1999年の伝説的なスピーチの背景には、複数の競争が同時進行していた。IBMとの戦いはまだ終わっておらず、LinuxがWindows ServerとWindowsを脅かし始め、Open OfficeがOfficeに対抗していた。さらにNetscapeとのブラウザ戦争の真っ只中で、DOJ(司法省)による反トラスト訴訟も進行中だった。
バルマーは「サードパーティが本当に重要だった。社内でも意見が分かれていた」と語る。Windowsチームは「開発者こそが第一の顧客」と考え、Officeチームは「Officeのニーズを優先すべき」と主張していた。バルマーは外部の開発者に向けて「我々はあなた方を必要としている」というメッセージを発信する必要があった。
ここでバルマーは「プラットフォーム」の定義について重要な洞察を述べる。「プラットフォームとは拡張可能なものすべてだ。アプリケーションもプラットフォームになり得る。Officeも拡張可能で、パートナーが価値を追加できる。マイクロソフトは『我々はプラットフォーム企業だ』という考えに固執しすぎた。それが後に問題を引き起こした」と反省する。彼は「アプリとプラットフォームの両方を考えなければならない」と強調する。
モバイルと検索:逃した二つの巨大市場
バルマーは最大の後悔としてモバイルと検索を挙げる。問題の根源は「Windowsをあらゆる場所に持ち込もうとした」ことにある。「Windows Everywhere」というスライドがあったが、スマートフォンにWindowsのUIとAPIを無理やり適用しようとしたのが失敗の始まりだった。
2008〜2009年のクリスマス商戦が決定的な分岐点だった。VerizonはAT&TのiPhoneに対抗するため、マイクロソフトのWindows Mobileを採用する準備があった。しかし「我々はVerizonが求めるものを期日までに提供できなかった」。VerizonはAndroidに舵を切った。バルマーは「あの時、我々は自らのモデルに固執しすぎていた。新しいことを学び、修正するのが難しかった」と認める。
検索でも同様の過ちを犯した。Googleが1998年に創業したのに対し、マイクロソフトが本格参入したのは2003年。バルマーは「5年の遅れは大きい。我々には検索の分野での生得権も能力もなかった」と語る。さらに悪いことに、複数の事業にリソースを分散させすぎた。「一つの矢にすべての木を集めるべきだった」とバルマーはスコット・マクニーの言葉を引用して反省する。
バルマーは「二つのモデルだけがスマートフォンで成功した。ハードウェアで利益を上げ、バックエンドでマネタイズするAppleのモデルと、広告でマネタイズするAndroidのモデルだ。我々はどちらにもいなかった」と総括する。
Azureの誕生とクラウドへの道
Azureの始まりは2005〜2006年頃。AWSが立ち上がった時期と重なる。しかし、マイクロソフトのクラウドへの取り組みはそれ以前からあった。1990年代半ばの「Energizer」プロジェクトは、顧客のIT部門全体を請け負う構想で、バルマーによれば「ビル・ゲイツのアイデアだった」。
Azureの開発にあたり、バルマーはデジタル・イクイップメント・コーポレーション出身の伝説的エンジニア、デイブ・カトラーを起用した。カトラーはWindows NTの父であり、バルマーとは今でもゴルフを共にする親友だ。さらにマイクロソフトリサーチで「過小評価されていた」アミタブ・スリバスタバもチームに加えた。
しかし、初期のAzureは「Platform as a Service(PaaS)」に特化するという戦略的選択をした。バルマーは「Windowsの強みを活かせるPaaSに注力した。Infrastructure as a Service(IaaS)はマルチプラットフォームを受け入れることになり、Windowsの優位性を活かせないと考えた」と説明する。この判断は結果的に成長を遅らせた可能性がある。
バルマーは「クラウドへの移行は社内の文化を揺るがす必要があった」と振り返る。彼はワシントン大学でのスピーチで「我々は全面的にクラウドにコミットする」と宣言したが、これは社内向けのメッセージでもあった。「社員は社内メールより新聞を信じる。だから外部で宣言する必要があった」とバルマーは語る。
CEOとしての成果と課題:反トラスト、ストックオプション、ビルとの関係
バルマーがCEOに就任した2000年、マイクロソフトは三重の危機に直面していた。ドットコムバブルの崩壊、反トラスト訴訟の継続、そしてストックオプションの会計処理変更による収益性の見かけ上の悪化だ。
反トラスト問題は単なる法的課題ではなく、文化の問題だった。バルマーはオレゴン州ベンドでの経営陣リトリートで、営業責任者のオーランド・アヤラが「私は誇り高きコロンビア人だが、今日は誇り高きマイクロソフト社員ではない。我々の誠実性が攻撃されている」と涙ながらに訴えたエピソードを紹介する。バルマーは予定を全て変更し、この問題に集中せざるを得なかった。
ビル・ゲイツとの関係も複雑だった。バルマーがCEOに就任した2000年3月から約1年間、二人は口をきかなかった。「私は彼の上司になる意味がわからず、彼は私の下で働く意味がわからなかった」とバルマーは率直に語る。二人の妻が仲介役となり、ようやく会話が再開された。しかし、その後もハードウェア事業への進出(Surface、スマートフォン、HoloLens)をめぐって意見が対立し続けた。
バルマーは「Longhorn(Windows Vistaの開発コード名)は最大の失敗だった。裸の王様だった」と認める。Windowsへの過信が、新しい発想を阻害したのだ。彼は「ビルが去った後の最後の6年間が、私の最高の仕事だった」と語る。クラウド、Surface、Bingの改善——これらはビル・ゲイツの影響から解放された後に実現した成果だ。
CEO退任の決断とマイクロソフト株への忠誠
バルマーがCEOを辞任した理由は複合的だ。最大の要因はスマートフォン事業をめぐる取締役会との対立だった。彼はNokia買収を提案したが、取締役会は拒否した。バルマーは「プロセスが敬意を欠いていた」と不満を漏らす。特にビル・ゲイツとの関係が悪化していた。
彼は「スマートフォンは消費者向け事業への最後の希望だった。検索とモバイルが私の二つの柱だった。取締役会がノーと言った時、これが潮時だと悟った」と説明する。さらにクラウドへの移行期であり、新しいCEOが新たな能力を構築する良いタイミングでもあった。
退任後もバルマーはマイクロソフト株をほぼ全て保有し続けている。彼は「忠誠心」が理由だと語る。チャーリー・マンガーから「なぜ株を売らなかったのか。あなたはそれほど賢くないはずだ」と問われた時、バルマーは「私はそれほど賢くないが、それほど忠誠心がある」と答えたという。
財務的には「配当金だけで慈善活動の支出をほぼ賄えている」と説明する。また「売却すればキャピタルゲイン税を支払わねばならない。マイクロソフトが市場平均を税引き後で上回るかどうかが問題だ」と合理的な計算も示す。しかし最終的には「感情的な問題だ。私の赤ん坊だから」と語る。
クリッパーズとIntuit Dome:バスケットボールへの情熱
バルマーはクリッパーズのオーナーとして、ビジネスとスポーツの類似点と相違点を興味深く語る。「バージョンアップグレードと同じだ。夏にメジャーバージョンアップ(ドラフト、FA、トレード)、トレード期限にマイナーバージョンアップがある」と笑う。
しかし、最大の違いは「説明責任」の速度と透明性だ。「バスケットボールでは24秒ごとに成績表が出る。48分ごとに結果が確定する。『次の四半期で取り返す』は通用しない。負けた試合は永遠に負けだ」とバルマーは熱く語る。さらに「顧客は全てを知っている。選手が走った距離、ピック&ロールの成功率——全ての統計が公開されている」と指摘する。
Intuit Domeはバルマーのビジョンを具現化した製品だ。「ハードコアなバスケットボールファンのための最高の場所」を目指し、「The Wall」と呼ばれる51列の連続した観客席を設置。訪問チームのベンチの真上に位置し、フリースロー時には相手選手の視界に入る設計だ。バルマーは「データによると、The Wallの前での相手チームのフリースロー成功率はリーグ最低だ。狙い通りだ」と満足げに語る。
まとめ
このエピソードが特別なのは、バルマーが自らの成功と失敗を等しく率直に語った点にある。彼はIBMとの運命的な契約を「ラッキー」と認めつつ、その後のエンタープライズ事業の構築を自らの最大の功績と誇る。同時に、モバイルと検索での失敗については「Windowsに固執しすぎた」と自己批判を惜しまない。ビル・ゲイツとの確執や取締役会との対立など、経営の人間ドラマも赤裸々に語られた。バルマーの「忠誠心」がマイクロソフト株の保有継続につながり、結果的に1300億ドルの資産を生んだという事実は、投資の合理性を超えた経営者の心情を浮き彫りにする。彼の語り口には、34年にわたる企業人生への愛着と、逃した機会への悔いが同居しており、それがこの対談に深みを与えている。
要点
- バルマーは1980年入社、2000年から2014年までCEOを務め、在籍中にマイクロソフトの収益を約3倍、利益を4〜5倍に成長させた
- IBMとのDOS契約は非独占ライセンスという構造が決定的で、マイクロソフトを「統合のポイント」に押し上げた
- エンタープライズアグリーメントの発明により、サブスクリプション型の安定収益モデルを確立。これが後のクラウド事業の基盤となった
- モバイルと検索での失敗は「Windowsをあらゆる場所に持ち込もうとした」ことに起因する。新しい波には新しいモデルが必要だった
- Azureは2005〜2006年に着手し、PaaSに特化した戦略を取ったが、成長には長い時間を要した
- ビル・ゲイツとはCEO就任後1年間口をきかず、その後もハードウェア戦略をめぐり対立が続いた
- CEO退任の直接のきっかけはNokia買収をめぐる取締役会との対立。スマートフォンが消費者向け事業への「最後の希望」だった
- マイクロソフト株を保有し続けた理由は「忠誠心」。財務的合理性よりも感情的な結びつきが優先された
- Intuit Domeは「ハードコアなバスケットボールファンのための聖地」という明確なビジョンから設計され、The Wallなどの革新的な要素を備える