
ヴァンガード
- 概要 バンガードは、アメリカ資本主義の果実に参加するための最も効果的な手段として、個人投資家に低コストのインデックス投資を提供してきた企業である。現在ではS&P500の大...
- [5:30] ジャック・ボーグルの生い立ちと家族の没落 1929年5月、大恐慌の直前、ジャック・ボーグルは双子の兄弟デイビッドとともにニュージャージーの名家に生まれた。曽...
- ジャックは後に「人生で最高の仕事は午前3時の新聞配達だった。世界が静かで平和で、周りの混乱から逃れられた」と語っている。家族のコネクションでブレア・アカデミーに奨学金を得...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
アクワイアド / Ben Gilbert and David Rosenthal
概要
バンガードは、アメリカ資本主義の果実に参加するための最も効果的な手段として、個人投資家に低コストのインデックス投資を提供してきた企業である。現在ではS&P500の大半の企業において最大の株主であり、5000万人の顧客を抱えながら、自らは利益を追求しない「共産主義的資本主義」とも言えるユニークな構造を持つ。創業者ジャック・ボーグルがパートナーに解雇された後の復讐劇として始まったこの物語は、ウォール街から個人投資家の懐へ総額1兆ドルもの富を移転させた、金融史における最も重要な革命の一つである。
ジャック・ボーグルの生い立ちと家族の没落
1929年5月、大恐慌の直前、ジャック・ボーグルは双子の兄弟デイビッドとともにニュージャージーの名家に生まれた。曽祖父は相互保険会社を創業し、祖父は後にアメリカン・カン・カンパニーの一部となる企業を興した。しかし大恐慌で家族は財産のすべてを失い、父親はアルコール依存症となり家族を捨て、母親も深刻な鬱病に陥った。ボーグル三兄弟は幼い頃から複数の仕事を掛け持ちして家計を支えなければならなかった。
ジャックは後に「人生で最高の仕事は午前3時の新聞配達だった。世界が静かで平和で、周りの混乱から逃れられた」と語っている。家族のコネクションでブレア・アカデミーに奨学金を得て進学し、優秀な成績を収めたが、大学進学にあたって三兄弟のうち一人だけが行けるという状況で、ジャックが選ばれた。この重圧が彼の人生を決定づけた。
プリンストン大学に進学したボーグルは、経済学に魅了される。最初の中間試験ではD+を取るなど苦戦したが、やがて専攻を経済学に定め、卒業論文のテーマを探す中で運命的な出会いを果たす。
プリンストンの卒業論文と相互基金の誕生
1949年、ファイアストーン図書館でフォーチュン誌を読んでいたボーグルは、「Big Money in Boston」という記事に出会う。これはボストンのマサチューセッツ・インベスターズ・トラスト(MIT)という新しい投資信託会社の成長を報じるものだった。当時、アメリカ人の株式保有率はわずか4.2%で、個人投資家はブローカーを通じて個別株を購入するのが一般的だった。
この記事で紹介されていた「オープンエンド型」ファンドは画期的だった。従来のクローズドエンド型ファンドとは異なり、ファンドの規模に上限がなく、投資家はいつでも自由に出入りできる。しかし、その仕組みには重大な問題があった。投資家がファンドに100ドルを投資すると、8.5%もの「セールスロード」(販売手数料)がブローカーに支払われ、実際に投資されるのは91.5ドルだけだった。さらに、運用会社は年間1.5〜2%の管理報酬を徴収し、取引手数料も高額だった。
1951年春、ボーグルは「投資会社の経済的役割」と題する卒業論文を提出し、A評価を得て優秀な成績で卒業した。論文の核心は、ファンド業界の成長可能性を認めつつ、手数料が投資収益の大きな阻害要因となること、そして「すべてのファンドの平均パフォーマンスは市場と連動する」という洞察だった。これは後のインデックス投資の理論的基礎となるものだった。
ウェリントンでの台頭とゴーゴー時代
卒業後、ボーグルはプリンストンの先輩であるウォルター・モーガンが経営するウェリントン・マネジメントにアシスタントとして入社した。ウェリントン・ファンドは「一つの証券で完結する投資プログラム」を謳うバランス型ファンドで、業界トップ10に入る名門だった。ボーグルはモーガンの右腕として急速に昇進し、1965年、35歳で社長に就任する。
しかし、この時期、ウォール街は「ゴーゴー時代」と呼ばれる急進的な投資スタイルの台頭を迎えていた。ボストンのフィデリティが先駆けとなり、ジェリー・ツァイという若手ポートフォリオ・マネージャーが率いるフィデリティ・キャピタル・ファンドは、集中的なポジションと頻繁な売買で驚異的なリターンを上げていた。保守的なバランス型ファンドの市場シェアは1955年の40%から1965年には17%にまで低下し、ウェリントンは存亡の危機に直面していた。
モーガンはボーグルに「何でもやって会社を立て直せ」と指示し、ボーグルは「打ち負かせないなら仲間に入れ」の戦略を取る。ボストンの新興ファンド「アイベスト」の4人の若手パートナーと合併し、彼らに経営権の40%を譲渡した。ウェリントンの運用資産20億ドルに対し、アイベストはわずか1700万ドルだったが、ボーグルはゴーゴー時代に適応するためにはこの代償を払う必要があると判断したのである。
解雇とバンガードの創設
1970年代に入ると、オイルショックとスタグフレーションにより株式市場は50%下落し、ゴーゴーブームは崩壊した。アイベスト・ファンドは1年で65%もの損失を出し、最終的に閉鎖された。ウェリントン・ファンドの資産は20億ドルから4億8000万ドルにまで減少した。
この危機の中で、ボーグルは深刻な良心の葛藤に苛まれる。顧客の資本を毀損しているにもかかわらず、手数料を引き下げていない現状に疑問を抱き、「ファンドの相互化」—すなわち運用会社を解散し、ファンド自体が自己所有となる構造—を提案した。これは事実上の事業放棄であり、パートナーたちの猛反発を招く。
1974年1月23日、アイベストの4人のパートナーは結束し、ボーグルをウェリントン・マネジメントのCEOから解任した。しかし、ボーグルはファンド自体の理事会の議長として、法的な抜け道を利用する。ファンド理事会は運用会社を選ぶ権利を持っており、ボーグルはこの権限を行使して、ウェリントン・マネジメントとの関係を断ち切り、ファンドの管理業務をすべて自社で行う新組織の設立を提案した。
250ページに及ぶフィージビリティ・スタディを経て、ファンド理事会は限定的ながらボーグルの提案を承認した。新会社はファンドの管理業務(バックオフィス、税務、法務など)のみを担当し、投資判断と販売はウェリントンに残ることが条件だった。こうして1974年9月、バンガード・グループが設立された。社名は、ナポレオン戦争で英国の勝利を決定づけたHMSバンガード号に由来し、ボーグルの「完全なる勝利」への決意を象徴していた。
インデックス・ファンドの誕生と初期の苦闘
バンガードは投資助言業務を禁じられていたが、ボーグルは別の革命を準備していた。1974年秋、ノーベル賞経済学者ポール・サミュエルソンが「市場全体を模倣する、手数料不要のファンド」の必要性を提唱する論文を発表。これに触発されたボーグルは、アクティブな投資判断を一切行わないインデックス・ファンドの創設に乗り出す。
1976年、バンガードは最初の個人投資家向けインデックス・ファンド「ファースト・インデックス・インベストメント・トラスト」(現在のバンガード500インデックス・ファンド)を立ち上げた。しかし、そのIPOは惨憺たる結果に終わる。目標の1億5000万ドルに対し、集まったのはわずか1130万ドル。あまりに少ない資金のため、S&P500の全銘柄を購入できず、280銘柄のみで構成せざるを得なかった。しかも、その運用は家具店で働く女性が夜間と週末にパートタイムで行っていた。
フィデリティのネッド・ジョンソンは「大多数の投資家が平均的なリターンで満足するとは思えない」と嘲笑した。ファンドは資金流出に悩み、存続の危機に瀕した。1977年には、別のウェリントン系ファンド(エクセター・ファンド)を吸収合併することで、ようやく資金基盤を確保した。この合併により、5800万ドルの資産がインデックス・ファンドに移された。
1981年、バンガードは販売業務の自社化に成功する。証券会社を通さず、投資家が直接ファンドに投資できる「ノーロード」方式への転換である。これにより8.5%の販売手数料は廃止されたが、自社でマーケティングと顧客対応を行うための固定費が発生した。1982年、ファンドはようやく1億ドルの資産を達成。そこから1988年には10億ドルに到達し、インデックス革命は徐々に加速していく。
ETF論争とボーグルの二度目の解任
1990年代、バンガードは急成長を遂げる。1992年にはS&P500だけでなく全米株式市場をカバーする「トータル・ストック・マーケット・インデックス・ファンド」を立ち上げ、1996年までに運用資産は1800億ドルに達した。しかし、この成功の裏で、ボーグルと後継CEOジョン・ブレナンの間に深刻な対立が生じていた。
最大の争点はETF(上場投資信託)だった。1992年、アメリカン証券取引所のネイサン・モストがETFの構想を携えてバンガードを訪問。ETFは株式のように取引所で売買できるインデックス・ファンドで、より広範な投資家にリーチできる画期的な商品だった。しかしボーグルはETFを「投機の温床」として強く拒否した。取引所でリアルタイムに売買できることで、長期投資という本来の目的から逸脱し、頻繁な売買によるコスト増加や税効率の悪化を招くと懸念したのである。
ボーグルがETFを拒否する一方、ステート・ストリートはSPDR(スパイダー)を立ち上げ、世界初のETF市場を席巻した。1999年8月、ブレナンと経営陣はついに決断する。バンガードの定款にある「取締役の定年は70歳」という規定を執行し、その年に70歳を迎えたボーグルを取締役会から退任させたのである。ただし、より高齢の取締役には適用されなかったため、これは明らかにボーグルを対象とした措置だった。
この「二度目の解任」は大きな波紋を呼んだ。ボーグルは既に投資家の間で「聖ジャック」と呼ばれる存在となっており、熱心な支持者たちは「ボーグルヘッズ」というコミュニティを形成していた。結局、ボーグルはバンガードの象徴的存在として残り、研究センターを率いて執筆・講演活動を続けることで妥協が成立した。バンガードは2001年にようやくETF市場に参入するが、この判断の遅れは後に大きな影響を及ぼすことになる。
2008年金融危機とバンガードの黄金時代
2008年の金融危機は、バンガードとインデックス投資にとって決定的な転機となった。アクティブ運用の世界は壊滅的な打撃を受けた。多くのヘッジファンドやミューチュアル・ファンドが「賢い運用者は暴落時にも顧客を守る」という約束を果たせず、投資家の信頼は完全に失われた。
この危機の中で、バンガードの「利益を追求しない」「顧客のためにのみ存在する」という姿勢は、ウォール街への怒りと幻滅に苛まれる一般投資家の心を掴んだ。バンガードの市場シェアは危機前の15%から30%へと倍増。2010年9月にはフィデリティを抜いて世界最大のミューチュアル・ファンド運用会社となった。
さらに、ウォーレン・バフェットが2007年に発した有名な賭けが、バンガードの勝利を決定的にした。バフェットは「10年間で、バンガード500インデックス・ファンドは、どんなヘッジファンドのポートフォリオよりも高いリターンを上げる」と100万ドルの賭けを提案。唯一挑戦したテッド・サイズ(現在のキャピタル・アロケーターズ・ポッドキャストのホスト)は、ヘッジファンド・オブ・ファンズ5本を選んだが、結果はバンガードの126%に対し、ヘッジファンドは36%と惨敗した。
バフェットは2016年の株主宛書簡で「アメリカの投資家に最も貢献した人物の銅像を建てるなら、それはジャック・ボーグルだ」と絶賛。この一言が、バンガードのブランドを不動のものにした。2014年から2019年にかけて、バンガードには1.2兆ドルの資金が流入し、競合他社全体の合計(5000億ドル)の2倍以上を集めた。
現代の課題と新CEOの挑戦
2019年1月、ジャック・ボーグルは89歳で死去。彼の遺産は約8000万ドルと報じられた。対照的に、フィデリティのジョンソン家は推定400〜500億ドル、ブラックロックのラリー・フィンクは約15億ドルの資産を持つ。ボーグルが残した富の差は、そのままアメリカの投資家の懐に還元されたと言える。
しかし、バンガードは新たな課題に直面している。フィデリティは401kプランとリテール・ブローカレッジで強みを発揮し、ブラックロックはiSharesの買収によりETF市場でリーダーシップを確立した。両社とも、バンガードのファンドを自社プラットフォームで販売しながら、顧客関係を自社に囲い込む戦略を取っている。さらに、フィデリティはカスタマーサービスとテクノロジーへの積極投資で、バンガードの「ジャンクな」ユーザー体験を凌駕しつつある。
2024年5月、バンガードは50年の歴史で初めて外部からCEOを迎えた。サリム・ラムジは、ブラックロックでiShares部門を率いていた人物である。彼の課題は、顧客サービスとテクノロジーの改善、アドバイザリー事業の拡大、そしてプライベート・エクイティへの進出など、バンガードの事業領域を拡大しながら、相互所有構造の利点を維持することにある。
特筆すべきは、バンガードが現在もアクティブ運用から撤退していないことだ。総運用資産12兆ドルのうち2兆ドルはアクティブ・ファンドであり、創業時のウェリントン・ファンドは今もバンガードの傘下で運用されている。ウェリントン・マネジメントは現在1.3兆ドルを運用する独立したアクティブ運用会社として存続し、両社の関係は修復されている。
まとめ
このエピソードが最も印象的に描き出すのは、一人の人間の信念と執念が、いかにして金融業界の構造そのものを変革し得るかという物語である。ジャック・ボーグルは、自らが富を得る道を捨て、顧客の利益だけを追求する組織を創り上げた。その結果、5000万人の投資家が低コストで市場の成長を享受できるようになり、ウォール街から個人投資家への1兆ドルの富の移転が実現した。バンガードの物語は、資本主義の枠組みの中で「共産主義的」とも言える構造が、いかにして最も純粋な形の資本主義の恩恵を提供できるかを示している。
要点
- ジャック・ボーグルは1929年に名家に生まれたが、大恐慌で家族は財産を失い、彼は幼少期から複数の仕事を掛け持ちして家計を支えた
- プリンストン大学の卒業論文で、投資信託の手数料が投資収益を大きく毀損することを指摘し、後のインデックス投資の理論的基礎を築いた
- 1974年、パートナーに解雇されたボーグルは、ファンド理事会の権限を利用してバンガードを設立。これは「復讐劇」として始まった
- 1976年に世界初の個人投資家向けインデックス・ファンドを立ち上げるが、IPOは大失敗。目標の1億5000万ドルに対し、集まったのは1130万ドルだった
- バンガードの相互所有構造(顧客が会社の所有者)により、利益を追求せず、スケールメリットをすべて低コストとして顧客に還元する仕組みが確立された
- 2008年の金融危機はバンガードにとって決定的な転機となり、アクティブ運用への信頼が崩壊する中で市場シェアが倍増した
- ウォーレン・バフェットの「10年賭け」でバンガード500インデックスがヘッジファンドに大勝し、インデックス投資の優位性が決定的に証明された
- 現代の課題は、ETF市場でのブラックロックへの遅れ、フィデリティの優れた顧客体験、そして相互所有構造がもたらす技術投資の制約である