
スターバックス(ハワード・シュルツ氏と共に)
- スターバックス:ハワード・シュルツが語る、一杯のコーヒーから生まれたグローバル企業の真実 スターバックスは現在、世界80カ国以上に約39,000店舗を展開し、週間で約5億...
- [0:00] スターバックス誕生以前:3人の創業者とコーヒー豆だけの時代 スターバックスは1971年、シアトルのパイク・プレイス・マーケットに1号店をオープンした。創業者...
- 1982年当時、スターバックスはまだ3店舗のみで、コーヒー豆の販売のみを行っていた。飲料は一切提供しておらず、カップも存在しなかった。アメリカのコーヒー文化はフォルジャー...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal
スターバックス:ハワード・シュルツが語る、一杯のコーヒーから生まれたグローバル企業の真実
スターバックスは現在、世界80カ国以上に約39,000店舗を展開し、週間で約5億件の顧客取引を処理する巨大企業である。しかし、この成功は決して当然のものではなかった。本エピソードでは、Acquiredのホストであるベン・ギルバートとデイビッド・ローゼンタールが、スターバックスを現在の姿にした立役者ハワード・シュルツを迎え、1982年にたった3店舗のコーヒー豆販売店として始まった会社が、どのようにして世界で最も認知されたブランドの一つに成長したのか、その全貌を語る。シュルツ自身が「もう戻ることはない」と明言する現在、彼は初めて全ての真実を包み隠さず語っている。
スターバックス誕生以前:3人の創業者とコーヒー豆だけの時代
スターバックスは1971年、シアトルのパイク・プレイス・マーケットに1号店をオープンした。創業者はジェリー・ボールドウィン、ゼヴ・シーゲル、ゴードン・ボウカーの3人で、ハワード・シュルツはその中に含まれていない。驚くべきことに、開業当初のスターバックスは自社でコーヒーを焙煎しておらず、サンフランシスコのピーツ・コーヒーから仕入れた豆を「スターバックス」の袋に詰めて販売していた。これはほとんど知られていない事実である。
1982年当時、スターバックスはまだ3店舗のみで、コーヒー豆の販売のみを行っていた。飲料は一切提供しておらず、カップも存在しなかった。アメリカのコーヒー文化はフォルジャーズやマックスウェル・ハウスといったインスタントコーヒーが主流で、スターバックスが扱う高品質なアラビカ豆は一部の愛好家だけのものだった。シュルツが初めてパイク・プレイスの店舗を訪れた時、彼は「コーヒーのロマンス」に衝撃を受け、後にスターバックスで働くことになる。
ハワード・シュルツの原点:ゼロックスでの3年間とプロジェクトの出身
シュルツはスターバックスに入社する前、ゼロックスでワードプロセッサーのセールスマンを務めていた。当時のゼロックスは現在のGoogleやIBMに匹敵する名声を誇り、スーツとネクタイを着用して42丁目から48丁目、5番街から川までのテリトリーで1日50件の飛び込み営業を強いられた。この経験についてシュルツは「謙虚さを学んだ」と語る。毎日の拒絶は計り知れず、月給はわずか1,000ドルだった。
転機は業績評価で「3」(5段階評価)を付けられた時だった。「私は一年間働いて、マネージャーから3をもらった。その瞬間、ここを出なければならないと悟った」とシュルツは振り返る。彼はブルックリンの公営住宅で育ち、金銭的プレッシャーに苦しむ機能不全家族の中で、父親が無教育のブルーカラー労働者として尊重されず、価値を認められない姿を見て育った。この原体験が、後にスターバックスで「異なる種類の会社」を築く原動力となる。
イタリアでの啓示:エスプレッソバーとの運命的な出会い
1983年、シュルツはミラノで開催された国際家庭用品見本市に出席するためイタリアを訪れた。ホテルを出た瞬間、彼は今まで見たことのない光景に遭遇する。街の至る所にエスプレッソバーがあり、人々がコーヒーを楽しみながら交流している。シュルツは「まるで白黒映画の中にいるようで、突然すべてが色づいた」と表現する。彼は次々とコーヒーバーを巡り、その体験に完全に魅了された。
シアトルに戻ったシュルツは興奮して創業者たちに「これこそがスターバックスが進むべき道だ」と訴えたが、彼らは「それは我々のやりたいことではない」と拒否した。特にジェリー・ボールドウィンはコーヒーバー事業を「清潔ではない」と考え、レストラン事業と同一視して嫌がった。シュルツは2年間粘り強く主張し続け、ようやく6号店の一角に100平方フィートのコーヒーバーを開設する許可を得た。結果は大成功で、それまで1日200〜300人だった顧客数が、ラテとカプチーノの導入により週500人に急増した。
独立と買収:Il Giornaleの創業からスターバックス買収へ
創業者たちがコーヒーバー事業に消極的だったため、シュルツはスターバックスを離れ、自身の会社「Il Giornale」を設立することを決意する。資金調達のために242人の投資家に声をかけ、217人に断られた。イタリアのエスプレッソメーカーFaemaとコーヒー会社Lavazzaにも投資を依頼したが、両方とも断られた。最終的にシアトルの3人の大物実業家、ジャック・ベナロヤ、ハーマン・サルコウスキー、サム・ストラムの支援を得て、約170万ドルを調達した。
Il Giornaleはシアトルに2店舗、バンクーバーに1店舗を開店し、すべて好調だった。しかし、資金不足で拡大が難しい状況の中、スターバックスがピーツ買収の負債に苦しんでいるという知らせが入る。ジェリー・ボールドウィンはシュルツに「スターバックスを買わないか」と持ちかける。価格は380万ドルだった。
ここで劇的な出来事が起こる。シュルツが資金調達に苦戦している最中、別の投資家が全額現金での買収オファーを提示した。その投資家こそ、かつてIl Giornaleに出資したサム・ストラムだった。窮地に立たされたシュルツは、バスケットボール仲間の弁護士スコット・グリーンバーグに相談する。グリーンバーグは彼をビル・ゲイツ・シニア(マイクロソフト創業者の父)に引き合わせた。
ゲイツ・シニアはシュルツに「2つだけ質問する。今話したことはすべて真実か?何か隠していることはないか?」と尋ね、確認を取ると「1時間後に戻ってこい」と言った。その後、彼はシュルツを連れてサム・ストラムのオフィスに向かい、「あなたが何を計画しているかは知らないが、それは実現しない。ハワード・シュルツがスターバックスを買収する。あなたから二度と連絡は来ない」と宣言した。こうしてシュルツはスターバックスの買収に成功する。ゲイツ・シニアはこの功績を決して公に語らず、シュルツがマイクロソフトのCEOサミットでこの話をした時、ビル・ゲイツ本人も初めて知ったという。
驚異のビジネスモデル:80%の粗利益率と2年以内の投資回収
買収後のスターバックスは、コーヒー豆の焙煎から飲料提供までの垂直統合により、約80%という驚異的な粗利益率を実現した。シュルツが自ら最初の500店舗の立地を選び、各店舗に適用した経済モデルは「売上対投資比率2対1、営業利益率20%以上」というものだった。つまり、年間売上100万ドルの店舗の場合、投資額は50万ドルで、1年目からこの比率を達成する必要があった。これにより、2年以内、多くの場合は1年半で投資を回収できた。
このモデルは小売業界で前例のないものだった。さらに、顧客が自らドリンクをカスタマイズし始めたことで、平均客単価は自然に上昇していった。シュルツは「顧客が『何か他のものを入れられますか?』と尋ね、バリスタが応じることで、カスタマイズが始まった」と説明する。現在ではスターバックスで10万種類以上のドリンクのバリエーションが定期的に作られている。
マーケティング費用は一切かけなかった。代わりに、象徴的なグリーンのカップが「無料の看板」として機能し、街中でカップを持って歩く人々がブランドの広告塔となった。また、カップのサイズを「small, medium, large」から「short, tall, grande」に変更したのは、デザイナーのテリー・ヘックラーのアイデアだった。当初は嘲笑されたが、顧客に愛される独自の言語となった。
人材への投資:Beanstalkとパートナーシップの文化
シュルツの最大の功績の一つは、従業員を「パートナー」と呼び、彼らに投資する文化を創り出したことだ。IPOの前年である1991年、彼は週20時間以上働くすべての従業員にストックオプションを付与する「Beanstalk」プログラムを導入した。当時1,300人の従業員が対象で、権利行使価格は1株6ドルだった。現在の株価は約77ドルだが、6回の株式分割を考慮すると、当初の付与は実質800倍以上の価値になっている。
このプログラムの導入には、2人のベンチャーキャピタリストが反対した。しかしシュルツは「従業員の期待を超えれば、彼らが顧客の期待を超える」という信念を貫いた。結果は正しく、離職率は業界平均の半分になり、パフォーマンスは向上した。さらに、1988年にはパートタイム従業員を含む全員に健康保険を提供し、これはオバマケアより25年以上前の画期的な取り組みだった。同性カップルの domestic partnership も対象とし、これも業界初だった。
シュルツは「父は決してスターバックスが何を成し遂げたかを見ることはなかった」と語る。彼の父親は健康保険のない家庭で育ち、病気になった時に何が起こるかを目の当たりにした。この原体験が、従業員への手厚い福利厚生の根底にある。
国際展開:日本と中国での挑戦
1996年、スターバックスは日本市場に進出した。ボードメンバーは反対し、外部コンサルタントの調査でも「日本では成功しない」という結論が出ていた。理由として「日本人は街中でコーヒーカップを持って歩かない(面子を失う)」「禁煙ポリシーは受け入れられない」「経済性が合わない」などが挙げられた。
しかし、シュルツは日本の企業家から届いた手書きの手紙に心を動かされ、合弁事業を決断する。東京・銀座の1号店オープン当日、猛暑の中200人以上の行列ができた。先頭に立っていた大学生が「double tall latte」と注文した瞬間、シュルツは「彼らはどうやって知ったんだ?」と驚いた。日本は瞬く間に成功し、現在2,000店舗以上を展開している。
中国市場はさらに困難だった。紅茶文化の国で、朝の需要はなく、不動産の選択も誤り、10年近く赤字が続いた。転機はベリンダ・ウォン(Belinda Wang)の登場だった。シンガポールと香港で実績を上げた彼女は、中国事業の完全な権限委譲を条件に引き受けた。彼女はシアトルからの干渉を排除し、現地の朝食メニューを開発し、中国政府と交渉して従業員の両親や祖父母にも健康保険を提供する画期的な制度を実現した。現在、中国はスターバックス全体の18%の収益を占め、約7,000店舗を展開している。
2008年の危機と復活:モバイルオーダーの光と影
2008年の金融危機はスターバックスを深刻な危機に陥れた。株価は30億ドルから7億ドル未満に急落し、創業以来初めて既存店売上高がマイナスに転じた。シュルツはCEOに復帰し、1,000店舗の閉鎖と大規模な人員削減を余儀なくされた。彼は全社集会で涙を流しながら謝罪し、「会社は7ヶ月後に資金繰りが行き詰まる」と正直に伝えた。
復活の鍵は「1店舗、1杯のコーヒー、1人の顧客、1人のパートナー」という原点回帰だった。各店舗で1日10人強の新規顧客を増やせば、全体の業績は回復するという具体的な目標を掲げた。結果は劇的で、2008年の利益3億1,500万ドルから2010年には9億4,500万ドルに急回復した。
しかし、この時期に導入されたモバイルオーダー&ペイは、後に大きな課題を生むことになる。現在、スターバックスの注文の33%がモバイル経由だが、この利便性が「サードプレイス」としての体験を損なっている。シュルツは「モバイルアプリは最大のアキレス腱だ」と率直に認める。店内にモバイルオーダー待ちの顧客が殺到し、バリスタが顔を上げる余裕もなくなり、人間的な繋がりが失われている。彼は「もし最初から知っていたら、24時間オンデマンドでの提供は許可しなかっただろう」と後悔を語る。
イタリアへの回帰:ロースタリーとウィリー・ウォンカの夢
1983年のイタリアでの啓示から約35年、スターバックスはついにミラノに進出した。シュルツは「イタリアに行く権利を得るまで待った」と語る。鍵となったのは「ロースタリー」というコンセプトだった。2013年、彼は最もクリエイティブな社員を自宅に招き、ジーン・ワイルダー主演の『ウィリー・ウォンカとチョコレート工場』を鑑賞させた。「この映画のような体験を作りたい」というのが彼のビジョンだった。
シアトルに30,000平方フィートのロースタリーを開設し、その後上海、東京、シカゴ、ニューヨークに拡大。そしてミラノでは、元郵便局だった物件をブラックストーンから借り受けるという劇的な展開があった。現在、イタリアには30店舗を展開し、最も人気のある飲料はエスプレッソだ。これは観光客ではなく、イタリア人が自ら選んでいる証拠である。
まとめ
このエピソードの核心は、スターバックスの成功が単なるビジネスモデルの勝利ではなく、「人間性のスケーリング」にあるという洞察だ。シュルツは一貫して「コーヒーは単なる媒体であり、本当の商品は人と人との繋がり」と語る。80%の粗利益率、2年以内の投資回収、モバイルオーダーによる浮動預金といった経済的優位性は、すべてこの人間中心の哲学があって初めて機能する。
しかし同時に、成功がもたらす「傲慢さ」と「ユビキタス(遍在)の罠」についての警鐘も印象的だ。シュルツは「成長は過ちを隠し、成功は傲慢を生む」と指摘する。モバイルオーダーが体験を損なっている現状、中国市場での苦闘、創業者依存のリスクなど、スターバックスが直面する課題は、あらゆるスケールアップ企業にとっての普遍的な教訓を含んでいる。
特に印象的なのは、シュルツが「私はもう戻らない」と明言しながらも、スターバックスへの愛情と責任感を隠さない姿勢だ。彼が2024年に公開した公開書簡「The Soul of a Brand」は、モバイルアプリの暴走とコーヒー体験の希薄化を警告し、現経営陣に「コーヒーカンパニーとしてのアイデンティティ」への回帰を促している。このエピソードは、一つの企業の成功物語であると同時に、創業者のビジョンと組織の持続可能性の間にある永遠の緊張関係を描き出している。
要点
- スターバックスは1971年にコーヒー豆のみを販売する3店舗から始まり、現在は世界80カ国以上に約39,000店舗を展開する。ハワード・シュルツは創業者ではなく、1987年に380万ドルで買収した。
- ビジネスモデルの核は「売上対投資比率2対1、営業利益率20%以上」という驚異的な経済性で、各店舗の投資は2年以内に回収できる。粗利益率は約80%に達する。
- 1991年に導入されたBeanstalkプログラムは、パートタイム従業員を含む全員にストックオプションを付与した初の事例で、権利行使価格6ドルは現在800倍以上の価値になっている。
- 日本進出時、外部コンサルタントは「失敗する」と予測したが、銀座1号店には開店前に200人以上が行列を作り、瞬時に成功した。中国では10年近く赤字が続いたが、ベリンダ・ウォンのリーダーシップで現在は収益の18%を占める。
- 2008年の金融危機では、創業以来初の既存店売上高マイナスを記録し、7ヶ月で資金が底をつく危機に直面した。シュルツの復帰と1,000店舗の閉鎖により、2年で利益を3倍に回復させた。
- モバイルオーダー&ペイは現在注文の33%を占めるが、シュルツは「最大のアキレス腱」と認め、サードプレイスとしての体験を損なっていると警告する。彼は「24時間オンデマンドでの提供は許可すべきではなかった」と後悔する。
- イタリア進出は1983年の啓示から35年後、ロースタリーという形で実現した。ウィリー・ウォンカに触発されたこのコンセプトは、ミラノでイタリア人自身がエスプレッソを求める成功を収めている。
- シュルツは「スターバックスは飲料会社ではなく、人々に仕えるコーヒーカンパニー」と強調する。彼の成功の本質は、父親の経験から学んだ「従業員への投資こそが最高の戦略」という信念にある。