
SONY
- ソニー:楽観主義の技術帝国が歩んだ栄光と蹉跌 第二次世界大戦後の焼け野原から立ち上がったソニーは、世界の消費者の想像力と財布を掴み、トランジスタラジオ、CD、ウォークマン...
- [0:00] 戦火の中の出会い:二人のエンジニアと日本の運命 1944年夏、東京・月島。第二次世界大戦の只中、日本の軍部は焦土と化す前に、連合国に対する切り札として熱追跡...
- 盛田は6歳で父の経営会議に同席し、10歳からは取締役会に出席するという異例のビジネス教育を受けていた。しかし彼は高校進学の際、父に家業継承の義務からの解放を願い出る。驚く...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal
ソニー:楽観主義の技術帝国が歩んだ栄光と蹉跌
第二次世界大戦後の焼け野原から立ち上がったソニーは、世界の消費者の想像力と財布を掴み、トランジスタラジオ、CD、ウォークマン、プレイステーションと次々にヒットを生み出した。しかし、最大の崇拝者であったスティーブ・ジョブズとアップルに最終的に敗れ、かつての輝きを失っていく。本エピソードでは、Acquiredのホストであるベン・ギルバートとデイヴィッド・ローゼンタールが、圧倒的な逆境の中で人間と技術への楽観主義を貫いたソニーの信じがたい物語を、創業から現在まで丹念に追う。
戦火の中の出会い:二人のエンジニアと日本の運命
1944年夏、東京・月島。第二次世界大戦の只中、日本の軍部は焦土と化す前に、連合国に対する切り札として熱追跡ミサイルの開発を急いでいた。このプロジェクトに、全く異なる出自を持つ二人の技術者が配属される。一人は「夢想家」と評される技術者の中の技術者、井深大。もう一人は、名古屋で400年続く酒造帝国の15代目跡取りでありながら、幼少期からラジオを分解しては組み立てることに夢中だった盛田昭夫である。
盛田は6歳で父の経営会議に同席し、10歳からは取締役会に出席するという異例のビジネス教育を受けていた。しかし彼は高校進学の際、父に家業継承の義務からの解放を願い出る。驚くべきことに父はこれを了承し、盛田は物理学と工学の道へ進む。この決断が彼の命を救うことになる。1941年の真珠湾攻撃時、盛田は20歳。もし家業を継いでいれば、弟たちのように神風特攻隊に志願する運命にあったかもしれない。代わりに彼は海軍の技術研究者として、実験室から戦争に関わる道を選んだ。
井深は戦前から短波ラジオに魅了されていた。日本政府が短波ラジオを違法化し、国民のラジオから短波受信部品を強制的に取り外させた時も、井深は密かに自分用の短波ラジオを作り続け、連合国の放送を聴いていた。彼は政府の宣伝とは裏腹に、戦況が日本に不利に進んでいることを知っていたのだ。
焦土からの創業:楽観主義という名の反逆
1945年8月15日、天皇がラジオで降伏を宣言する。広島と長崎への原爆投下後、盛田は物理学者としてその意味を即座に理解した。彼は後に『Made in Japan』の冒頭でこう記している。「原爆が何を意味するか、私にはわかった。未来ほど不確かなものはなかった。日本は一度も戦争に負けたことがなく、楽観的でいられるのは若者だけだった。それでも私は自分と未来に自信を持っていた。」
戦後の日本は廃墟と化していた。東京市民の47%が家を失い、1946年の国民一人当たりの年間所得は17ドル。日本は軍事力の永久放棄を余儀なくされ、連合国軍による占領統治下に置かれた。そんな中、井深は東京に戻り、会社を設立する。その名も「東京通信研究所」。目的は「技術者の喜びと社会的義務を自覚しながら、心ゆくまで働ける安定した職場を確立すること」だった。製品の構想すらないままに。
最初の試みは電気炊飯器と電気毛布だったが、どちらも失敗。やがて彼らは、戦時中に短波受信機能を無効化されたラジオを修理するサービスを始める。人々は情報と娯楽を切望していた。このサービスが新聞で紹介され、それを読んだ盛田が名古屋から井深に連絡を取る。「あなたの会社に仕えたい」。こうして二人の運命的な再会が実現する。
盛田は海軍との終身雇用契約から解放されるため、占領政府が元軍人を教育機関から追放する政策を利用するという戦略を取る。作戦は成功し、彼は自由の身となった。しかし今度は家業の問題が立ちはだかる。井深は自ら盛田の実家に同行し、夕食の席で盛田の父に「盛田を私のパートナーとしてください」と直談判する。父はこれを許し、19万円の投資も得た。後に盛田家はソニーの17%を所有することになる。
トランジスタとブランドの誕生:世界を変える小さなラジオ
1952年、井深はベル研究所がトランジスタの国際ライセンスを解放するという情報を掴む。トランジスタは真空管に代わる革新的な技術で、それまでのラジオやテープレコーダーはテーブルサイズの大型機器だった。井深は直感した。「これだ」。盛田はニューヨークに渡り、ライセンス契約を交渉する。ベル研究所の技術者たちは「トランジスタでラジオを作るのは無理だ。電力が足りない。補聴器に使うのが現実的だ」と助言する。しかし盛田と井深は「日本では補聴器市場は成り立たない」と、自らの直感を信じる。
2年の開発期間を経て、1955年8月、東京通信工業は初のトランジスタラジオ「TR55」を発売する。実は世界初のトランジスタラジオは、アメリカのレジェンシーとテキサス・インスツルメンツが先に製品化していた。しかし彼らは製品に本気で投資せず、市場は広がらなかった。一方、ソニー(当時はまだ東京通信工業)は全力を注ぐ。
このタイミングで、会社の名称変更が決まる。ラテン語で「音」を意味する「sonus」と、当時の若者言葉「sonny boy」を組み合わせ、「Sony」というブランドが誕生する。どの言語でも通用する、革新的な響きの名前だった。
1957年、井深の「シャツのポケットに入るラジオ」というビジョンを実現したTR63が登場。わずかに標準的なポケットより大きかったため、ソニーの営業部隊は特別に大きなポケットのついたシャツを特注し、デモンストレーションでラジオをポケットに入れて見せた。これは後のスティーブ・ジョブズがMacBook Airを封筒から取り出したパフォーマンスを彷彿とさせる。TR63は最終的に150万台を売り上げ、ソニーは従業員1200人の企業に成長する。
アメリカへの挑戦とブランドの確立
盛田はアメリカ市場に照準を定める。ブルーバ時計会社から10万台の大口注文の申し出があったが、条件は「ブルーバのブランドで販売する」というものだった。盛田はこれを断る。「ソニーのTR63を売るか、何も売らないかだ」。後に彼はこれを「キャリア最高の経営判断」と語っている。この決断は、ソニーが直接消費者と向き合うブランド企業としての道を選んだ瞬間だった。
1960年、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立。盛田は自ら家族を連れてニューヨークに移住する。当時の日本のCEOで、自らアメリカに移り住んでビジネスを行う者は他にいなかった。この決断が、ソニーとアメリカ企業との関係を決定的に深めることになる。
1966年、CBSが日本での音楽事業のパートナーを探していると聞いた盛田は、すぐに動く。CBSのハーヴェイ・シャインと会い、「ぜひやらせてください。50対50の合弁で、条件は柔軟に対応します」と迫る。1年も経たないうちにCBS・ソニー・レコードが設立された。この合弁会社は、数年後にはソニーとCBSの両社で最も収益性の高い部門となる。あまりのキャッシュの豊富さに、カリフォルニアの柑橘類農園を買い漁って資金を運用したほどだった。
この合弁の運営を任されたのが、若きプロテジェの大賀典雄。彼はクラシック音楽の訓練を受けたオペラ歌手であり、指揮者でもあった。後にソニーのCEO兼会長になっても、東京フィルハーモニー交響楽団を指揮し続けたという異色の経歴を持つ。学生時代からソニーの工場に招かれ、製品の音質テストに協力していた縁で入社した。
トリニトロンとベータマックス:技術の勝利と敗北
カラーテレビの時代が到来するが、初期のカラーTVは画質が悪く、消費者は白黒テレビを買い続けていた。3本の電子銃を正確に同期させる技術的な難しさが原因だった。井深は自らエンジニアチームを率いて、新しいカラー表示システムの開発に乗り出す。これがトリニトロンである。初期の製造歩留まりは極めて悪く、1台あたりの製造コストが販売価格を上回ることもあったが、井深は諦めなかった。トリニトロンはその後数十年にわたり、ソニーを世界一のテレビメーカーに押し上げる。
1975年、ソニーはベータマックス方式のビデオカセットレコーダーを発売する。画期的な技術で、消費者がテレビ番組を録画できる「タイムシフト」を可能にした。ドラキュラ役で有名なベラ・ルゴシを起用したCMは大ヒットする。
しかし、ここからソニーは大きな誤算を経験する。MCAユニバーサルのルー・ワッサーマンとシド・シェインバーグは、ベータマックスがハリウッドの権力構造を脅かすと判断。CMの協力依頼に対し「それは著作権侵害だ」と返し、1976年11月、ソニーを著作権侵害幇助で訴える。この訴訟は逆にベータマックスの認知度を高め、売上を急増させた。盛田はアメリカで2000万ドルの広告キャンペーンを命じるが、ソニー・アメリカのCEOハーヴェイはこれを拒否。二人の間に亀裂が生じる。
MCAは怒り心頭に発し、ソニーの競合である松下電器(パナソニック)と組んでVHS方式を支援することを決める。松下はすでにVHSフォーマットを開発していた。MCAの影響力は絶大で、ハリウッド全体がVHSに傾いた。こうしてベータマックスは敗れた。この経験が、後にソニーがコロンビア映画を買収する動機の一つになる。
ウォークマンとCD:音楽を個人化した二つの革命
1979年、盛田は社内の反対を押し切ってウォークマンを発売する。録音機能を省き、スピーカーを外してヘッドホンに特化したカセットプレーヤー。マーケティング部門は「外でヘッドホンをつけて歩くなんて誰も欲しがらない」と反対した。エンジニアたちは「十分な音を出す電力が確保できない」と技術的な難しさを訴えた。盛田は「低消費電力のヘッドホンを作ればいい」と一蹴。取締役会では「初回生産3万台が年内に売れなければ辞任する」と約束させられたという。
結果は大成功。初回生産分は1ヶ月で完売し、その後も売上は倍々で伸び続けた。ウォークマンは製品ライフサイクル全体で2億5000万台を売り上げ、人々が外の世界で音楽を聴くという行動様式を永遠に変えた。盛田は後にこう述べている。「いかなる市場調査も、ウォークマンの成功を予測できなかっただろう。それは何百万もの人々の習慣を変えたのだ。」
一方、CDの開発は1960年代にまで遡る。大賀が1966年にフィリップスとクロスライセンス契約を結び、両社は共同でデジタルオーディオフォーマットの研究を始めていた。精密レーザー技術の進歩が鍵であり、この技術は後にASML(オランダの半導体露光装置メーカー)へとつながっていく。1980年にフォーマットが発表され、1982年にソニーが初のCDプレーヤーを発売。1986年までにCDはレコードを抜いて主要な録音フォーマットとなった。
プレイステーション:裏切りから生まれた最大の成功
1989年、ソニーのエンジニア久夛良木健は、娘がファミコンに夢中になる姿を見て、ビデオゲームの可能性を確信する。彼は独断で任天堂に接触し、スーパーファミコン用のサウンドチップの開発を申し出る。ソニー社内に無断での行動だった。発覚後、久夛良木は解雇寸前になるが、大賀CEOが「この男は面白い」と庇い、プロジェクトを継続させる。スーパーファミコンは5000万台近くを売り上げる大成功を収めた。
次に任天堂とソニーは、CD-ROMを搭載したスーパーファミコンの共同開発で合意する。ソニーは「ソニー・プレイステーション」というブランドのハードウェアまで試作していた。1991年のCESで、両社はこの提携を華々しく発表する。
ところが、その翌日の任天堂の基調講演で、任天堂は「CDフォーマットのオリジナル開発者」との新たな提携を発表する。その相手はフィリップス。ソニーは完全に裏切られた。任天堂は、ソニーがCDゲームのライセンス収入の多くを得る契約に不満を持ち、密かにフィリップスと交渉を進めていたのだ。
ソニーには三つの選択肢があった。諦める、セガと組む、あるいは自社でやる。セガへの打診は断られた。社内の取締役会はゲーム事業からの撤退を決議する。しかし久夛良木は諦めず、大賀に直訴。大賀はプロジェクトをソニー本体からソニー・ミュージック(旧CBS・ソニー)に移し、政治的な干渉から守るという奇策を取る。
初代プレイステーションは1億台以上を売り上げ、プレイステーション2は1億5000万台で歴代最多の売上を記録。ソニーは8000のゲームタイトルを擁し、任天堂のN64(400タイトル)を圧倒した。ゲーム業界は現在、年間1800億ドルの市場に成長し、ハリウッド(500億ドル)の3倍以上。ソニーの収益の約30%、利益の約50%をゲーム部門が占めている。
コンテンツ帝国への野望とソフトウェアの壁
1986年、CBSに乗っ取り屋ラリー・ティッシュが現れ、レコード事業の売却を模索し始める。ソニーは20億ドルでCBSレコードを買収。当時は「レコード会社に20億ドルは高すぎる」と批判されたが、5倍の利益倍率で見れば割安だった。現在、ソニー・ミュージックは年間20億ドル以上の営業キャッシュフローを生み出している。
続いて1989年、ソニーはコロンビア映画を32億ドル(負債引き受けを含め実質60億ドル)で買収。ベータマックスでの敗北が背景にあった。「コンテンツを所有すれば、フォーマット戦争で有利になる」という戦略だった。しかし、ハードウェア部門とコンテンツ部門の利害は対立する。ハードウェアは広く互換性を求めるが、コンテンツは自社プラットフォームでの独占を望む。この垂直統合のジレンマは、ソニーを長年悩ませることになる。
ソニーの最大の弱点は「ソフトウェアを理解していない」ことだった。彼らはコンテンツ(音楽、映画、ゲーム)を「ソフトウェア」と呼んでいたが、それは真のソフトウェア、すなわちコンピューティングではなかった。2004年、ソニーとアップルはほぼ同じ時価総額300億ドル、純利益率2-3%で並んでいた。それから20年後、アップルは2.8兆ドル(ソニーの19倍)、純利益率26%に成長。ソニーは1500億ドル、純利益率13%に留まった。ソニーは全ての製品カテゴリーでアップルに敗れた。MP3プレーヤー、スマートフォン、タブレット、ヘッドホン…。ソニー製品は互いに連携せず、単なる「箱を同軸ケーブルで繋ぐ」だけだった。アップルはハードウェア、ソフトウェア、サービスの統合でエコシステムを築いた。
現代のソニー:複合企業体としての再生
現在のソニーは、ゲーム、音楽、映画、エレクトロニクス、イメージセンサー、金融サービスの6部門からなる複合企業体だ。全セクターが2桁の収益・利益比率を持ち、驚くほど分散されている。
イメージセンサー事業は、ソニーがスマートフォン市場で敗れた後に見出した「武器商人」戦略の成功例だ。2009年に業界初の裏面照射型CMOSセンサーを製品化し、現在は世界のイメージセンサー市場の約50%を占める。iPhoneのカメラセンサーの主要サプライヤーでもある。
金融サービス部門(ソニー生命保険、ソニー銀行)は、2014年にはソニーの営業利益の63%を占めた時期もある。1979年にプルデンシャル生命との合弁で始まった生命保険事業は、他の事業が苦戦する時期にソニーを支え続けた。
スパイダーマンの映画権は、ソニーが2000年にマーベルから1000万ドル+興行収入の5%で買い取ったものだ。5年9ヶ月ごとに1本製作すれば永久に権利を保持できるという信じがたい条件で、現在までに7本のスパイダーマン映画が製作され、全世界興行収入は75億ドルを超える。マーベルはスパイダーマンをMCUに登場させる代わりに、ソニーに代わって映画製作を行うという複雑な協力関係にある。
ブルとベア:ソニーの未来を読む
ベンとデイヴィッドは、ソニーの現在地を分析する。強気材料は、プレイステーション5の圧倒的な需要、イメージセンサー市場での独占的地位、音楽レーベル事業の安定した成長、そして複合企業体としての分散の強みだ。弱気材料は、マイクロソフトのGame Passサブスクリプションモデルがゲーム業界の構造を変える可能性、ソニーが依然として「コンピューター」を理解できていない点、そして過去の輝きを取り戻せていない点だ。
2004年に同じスタートラインに立ったアップルとの比較は残酷だ。ソニーは時価総額を5倍にしたが、アップルは19倍。純利益率もアップル26%に対しソニー13%。「ソニーの戦略は良かった。しかしアップルの戦略は歴史上最高だった」とデイヴィッドは評する。
まとめ
ソニーの物語は、楽観主義と技術への純粋な愛情が、どれほど絶望的な状況からでも偉大なものを生み出せるかを教えてくれる。戦後の廃墟から世界を代表するブランドに成長した最初の30年は、間違いなくA+の成績だ。しかし、コンピューターとソフトウェアの時代に適応できず、最大の崇拝者であったアップルに追い越された後の30年は、D評価と言わざるを得ない。それでも、ソニーは今なお日本で2番目に大きな企業であり、ゲーム、音楽、映画、イメージセンサーで世界のトップを争う。その多様性こそが、ソニーの強みであり、同時にかつての「世界一のブランド」という輝きを失わせた原因でもある。このエピソードは、技術の優位性だけでは永遠の成功は約束されず、ソフトウェアとエコシステムの重要性を痛感させる、示唆に富んだ物語である。
要点
- ソニーは1946年、第二次世界大戦後の廃墟の中、井深大と盛田昭夫によって「技術者が心ゆくまで働ける場所」として創業された
- トランジスタラジオ、トリニトロン、ウォークマン、CD、プレイステーションと、次々に世界を変える製品を生み出した
- ベータマックス対VHSの敗北は、ソニーに「コンテンツを所有する」ことの重要性を痛感させ、コロンビア映画買収につながった
- プレイステーションは、任天堂の裏切りを契機に生まれ、現在ではソニーの収益の約30%、利益の約50%を占める最大事業に成長した
- ソニーの最大の弱点は「ソフトウェアを理解していない」ことであり、2004年に同じ時価総額だったアップルに大きく差をつけられた
- 現在のソニーは、ゲーム、音楽、映画、イメージセンサー、金融サービスの複合企業体として再生し、イメージセンサーでは世界市場の約50%を占める
- スパイダーマンの映画権は1000万ドルで買い取られ、現在までに75億ドル以上の興行収入を生む「世紀の掘り出し物」となった