
Nintendo:コンソール戦争
- 任天堂:コンソール戦争の栄光と挫折、そして再生の物語 本エピソードは、1980年代にNES(ファミコン)で世界の家庭用ゲーム市場の95%以上を掌握しながら、わずか数世代で...
- [0:00] ゲームボーイ:携帯ゲームの革命と「枯れた技術の水平思考」 エピソードは、前回 intentionally 省略した「小さな巨人」、ゲームボーイの物語から始ま...
- NESが最先端のGPUアーキテクチャを採用していたのとは対照的に、ゲームボーイは電卓産業の成熟しきった安価な技術を流用して作られた。伝説によれば、横井は東京の電車の中で、...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal
任天堂:コンソール戦争の栄光と挫折、そして再生の物語
本エピソードは、1980年代にNES(ファミコン)で世界の家庭用ゲーム市場の95%以上を掌握しながら、わずか数世代で約10%にまでシェアを落とし、その後再び頂点に返り咲いた任天堂の壮絶な浮沈の物語である。ホストのベン・ギルバートとデイビッド・ローゼンタールは、同社の最大の強みが最大の弱点でもあるという逆説を軸に、ゲームボーイという「小さくて大きな」携帯プラットフォームがいかに任天堂を何度も救ったか、そしてソニーやマイクロソフトといった巨人との戦いの中で同社がどのように創造性と狡猾さを武器に生き残ってきたかを深く掘り下げる。130年以上の歴史を持つこの企業が、今なお誤解され、過小評価されている可能性についても議論する、示唆に富んだ内容だ。
ゲームボーイ:携帯ゲームの革命と「枯れた技術の水平思考」
エピソードは、前回 intentionally 省略した「小さな巨人」、ゲームボーイの物語から始まる。任天堂の伝説的エンジニア、横井軍平は、1980年代初頭に「ゲーム&ウオッチ」という携帯型専用ゲーム機事業を手掛けていた。各ハードウェアが1つのゲームしかプレイできないこの製品は、最終的に4300万台を売り上げ、10億ドル以上の生涯収益を生み出した。特筆すべきは、このゲーム&ウオッチで横井が「十字キー(Dパッド)」を発明したことだ。しかし、より重要なのは横井の技術哲学、「枯れた技術の水平思考」である。
NESが最先端のGPUアーキテクチャを採用していたのとは対照的に、ゲームボーイは電卓産業の成熟しきった安価な技術を流用して作られた。伝説によれば、横井は東京の電車の中で、退屈したビジネスマンが計算機のボタンを無意味に押しているのを観察し、携帯型ゲームの需要に気づいたという。1989年4月に日本で発売されたゲームボーイは、社内で「ダメゲーム」と呼ばれながらも、89.95ドルという低価格で市場に投入された。名前の由来はソニーの「ウォークマン」に対抗して「ゲームマン」にしようとしたが、ソニーを揶揄して「ゲームボーイ」になったという逸話も紹介される。
キラーアプリはテトリスだった。ソ連のプログラマーが発明したこのゲームを巡っては、冷戦下での権利獲得をめぐる壮大な物語がある。米任天堂の荒川實は、テトリスのデモを見て、これがゲーム市場を「小さな男の子向け」から「全年齢対象」へと拡大できると直感した。実際、米国ではゲームボーイプレイヤーの46%が大人であり、ビジネスマンのステータスシンボルとなった。任天堂アメリカの広告キャンペーン「父を罰せよ(Punish Your Father)」や、航空機雑誌への広告掲載は象徴的だ。ゲームボーイは最初の3年間で3200万台を販売し、その後ゲームボーイカラーを含むシリーズ全体で1億1800万台を売り上げ、歴代4位の売上を記録する家庭用ゲーム機となった。
セガの逆襲:トム・カリンスキーの4つの戦略
NESが市場を支配する中、セガはアーケード事業で培った16ビット技術を武器に、家庭用ゲーム機市場への再挑戦を開始する。1988年に日本でメガドライブ、1989年に米国で「セガ・ジェネシス」として発売されたが、当初は不振だった。転機は1990年、セガ・オブ・アメリカの新CEOにトム・カリンスキーが就任したことだ。彼はマテル社の元CEOで、バービー人形の成功を収めた玩具業界の人間であり、ゲームの知識は皆無だった。しかし、彼はセガ史上最高の人材となる。
カリンスキーは日本の本社に「4つの戦略」を提案する。第一に、任天堂がスーパーファミコンを250ドルで発売すると予想し、ジェネシスを先制的に150ドルに値下げする価格戦争の開始。これは任天堂の「ハードウェアで儲ける」戦略への完璧なカウンターとなった。第二に、バンドルゲームを「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」に変更。ソニックは任天堂のマリオとは対照的に、高速で攻撃的なキャラクターであり、セガのブランドそのものを象徴する存在となった。第三に、アメリカ市場向けのゲームをアメリカで開発する方針。これにより、エレクトロニック・アーツ(EA)との和解と、マッデンNFLフットボールのジェネシス独占契約を実現。EAには通常のライセンス料10ドルに対し、2ドル(上限100万本)という破格の条件を提示した。第四に、マーケティングの全面刷新。リーボックの復活を指揮したスティーブ・レイスを起用し、MTV世代向けの攻撃的な広告キャンペーンを展開。「Genesis does what Nintendon't」というスローガンや「blast processing」という架空の技術用語のマーケティング、さらには「ソニック・チューズデイ」と銘打った世界同時発売日の設定など、現代のゲームマーケティングの基礎を築いた。
この4つの戦略の相乗効果により、セガは任天堂をほぼ互角の勝負に持ち込んだ。任天堂はスーパーファミコンにNESとの後方互換性を搭載する計画だったが、セガの先制的値下げにより、互換性を断念して200ドルでの発売を余儀なくされた。この決断は、任天堂の最大の強みである既存のインストールベースを活用する機会を自ら放棄するものだった。
ソニーの参入とN64の失敗:自ら招いた最大の過ち
16ビット世代でセガと互角に戦った任天堂だったが、次なる世代で最大の自滅的過ちを犯す。1991年6月のコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)で、任天堂とソニーはスーパーファミコン用CD-ROMアドオンの共同開発を発表する予定だった。しかし、ソニーが発表を行った翌日、任天堂は自らのプレスカンファレンスでこの提携に一切触れず、代わりにソニーのアーキテクチャ上のライバルであるフィリップスとのCD-ROM提携を発表した。これはソニーへの完全な裏切りであり、同社に強烈な敵意を植え付けた。
この提携破棄の背景には、ソフトウェア収入のロイヤリティ配分を巡る条件面での不一致があった。しかし、この裏切りにより、ソニー(当時の売上380億ドル、任天堂は40億ドル)という巨大企業に火をつける結果となった。久夛良木健はソニー・ミュージック内でプレイステーションを開発し、セガからスティーブ・レイスが米国部門の初代社長として加わった。1994年に日本、1995年に米国で発売されたプレイステーションは、CDベースで開発が容易な32ビットシステムであり、ソニーの技術力と資金力を背景に大成功を収める。
任天堂の対抗策は、シリコングラフィックス(SGI)と組んで開発したN64だった。64ビットへの一足飛び、カートリッジの継続使用、高価な開発環境——これらは全て、開発者を遠ざける要因となった。N64は3300万台の販売に留まったのに対し、PS1は1億200万台を売り上げた。さらに次世代では、PS2が1億5500万台という歴代最多販売台数を記録。任天堂のゲームキューブはわずか2000万台強で、Xbox(2400万台)にも及ばなかった。この間、任天堂は家庭用ゲーム機市場で壊滅的な打撃を受けた。
携帯ゲーム機の要塞:ゲームボーイからDSへ
任天堂が家庭用ゲーム機で失敗を重ねる一方、携帯ゲーム機市場では驚異的な成功を収め続けた。ゲームボーイ、ゲームボーイカラー、ゲームボーイアドバンス、そしてDSは、任天堂に20年にわたる「安全域」を提供した。この成功の鍵は、ソニーやマイクロソフトが無視していた2つの市場——子供向けゲームとカジュアルな大人向けゲーム——を的確に捉えたことにある。
特にポケモンの成功は特筆に値する。田尻智が率いるゲームフリークは、リンクケーブルを使った「虫の収集と交換」というコンセプトを宮本茂に認められ、6年の開発期間を経て1996年にポケモンを発売。4人のプログラマーが田尻の父親の資金で開発したこのゲームは、予想を超える大ヒットとなり、現在では生涯収益1000億ドル近いメディアフランチャイズに成長した。そのうち600億ドルはマーチャンダイジング(主にトレーディングカードゲーム)によるものだ。
DSは1億5400万台を売り上げ、PS2に迫る歴代2位の販売台数を記録。脳トレやnintendogsなどのカジュアルゲームが新たな市場を開拓した。この携帯ゲーム機事業が、任天堂が家庭用ゲーム機で何度も失敗しながらも生き残ることを可能にしたのである。
Wiiの革命とスマートフォンによる崩壊
2002年、山内溥から岩田聡へのCEO交代と、米国ではレジナルド・フィサメ(レジー)の台頭により、任天堂は新たな方向性を模索し始める。2004年の基調講演でレジーは「I'm about kicking ass, taking names」と宣言し、ゲームキューブの失敗を認めつつ、革命的な新ハードウェア「プロジェクト・レボリューション」(後のWii)を予告した。
2006年に発売されたWiiは、「枯れた技術の水平思考」の集大成だった。赤外線モーションセンシングはテレビのリモコンに使われていた旧来の技術だが、ゲームに応用することで全く新しい体験を生み出した。コントローラーはテレビリモコンを模したデザインで、Wii SportsやWii Fitなどのバンドルソフトが爆発的なヒット。Wiiは1億台以上を販売し、PS3やXbox 360を凌駕した。任天堂の売上は約50億ドルから2009年には200億ドル近くに急増し、営業利益は50億ドルを超えた。
しかし、この成功は長く続かなかった。2008年から2009年にかけてのアプリストアの登場が、Wiiの市場を根こそぎ奪い去ったのである。Wiiが開拓したカジュアルゲーム市場は、スマートフォンという常に持ち歩けるデバイスに完全に取って代わられた。Wiiの売上は2009年に20%減少し、その後2年間でさらに毎年30%ずつ落ち込んだ。DSも同様に大打撃を受けた。任天堂は2012年に創業以来初の年間赤字を計上。Wii Uはわずか1300万台の販売に終わり、任天堂史上最悪の失敗作となった。
岩田聡の3カ年計画とスイッチの奇跡
危機的状況の中、岩田聡は2013年に秘密の「3カ年計画」を策定する。第一に、スマートフォンとの戦いを止め、Nintendo IPを活用したスマホゲームを開発する新部門を設立。ただし、全面移行ではなく、IPの価値を広め、ハードウェア事業への時間を稼ぐ手段として位置づけた。第二に、テーマパーク(ユニバーサル・スタジオとの提携)や映画など、IPの多角的展開。第三に、ハードウェア戦略の根本的な再考。
2016年、Nianticが開発したポケモンGOがリリースされ、文化的現象となる。任天堂の株価は2週間で2倍になったが、任天堂自身はこのゲームから直接的な収益をほとんど得ていない(ポケモンカンパニーへの32%の出資を通じた間接的な利益のみ)。同年末には、DNAとの提携による初のスマホゲーム「スーパーマリオラン」がリリースされたが、700 millionダウンロードに対して総収益は7500万ドルと、ユーザーあたり11セントという低収益に終わった。
2017年3月に発売されたNintendo Switchは、発売前は市場から酷評された。株価は7%下落し、「スマホより大きくてポケットに入らない」「性能の低い携帯機と家庭用機の寄せ集め」と批判された。しかし、Switchは「ミッドコア」市場——本格的だが誰でも楽しめるゲーム体験——を正確に捉えていた。発売と同時にリリースされた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』は、本体との装着率100%を記録する歴史的なヒットとなった。Switchは発売から6年で1億2300万台を販売し、任天堂を再び頂点に導いた。
分析:7つのパワーと今後の展望
分析パートでは、任天堂の現在の競争優位性が議論される。NES時代にあった「規模の経済×ネットワーク効果×スイッチングコスト」の魔法のような組み合わせは、もはや任天堂だけのものではない。しかし、同社には「囲い込まれたリソース(cornered resource)」としてのIPがある。マリオ、ゼルダ、ポケモンといったIPは、他社には模倣できない独自の価値を持つ。また、Nintendo Switch Onlineによるスイッチングコストも新たな強みだ。デジタル購入したゲームとセーブデータはサブスクリプションに依存しており、推定3500〜4000万人の有料会員がいる。
現在の任天堂のビジネスは、物理的なハードウェア販売で約100億ドル、デジタル事業(サブスクリプション約10億ドル+デジタルゲーム販売約20億ドル)で約30億ドルの収益構造を持つ。クロスロード・キャピタルが指摘するバリュエーションのブルケースは、このデジタル事業をSaaS企業と同様に評価すれば約210億ドル、現金を加えると340億ドル。現在の時価総額470億ドルとの差額130億ドルは、ハードウェア事業全体の価値に過ぎず、割安と見なせる。
一方、ベアケースとしては、Switchが携帯機と家庭用機の2つの市場を統合したことで「バックアッププラン」を失った点が指摘される。また、任天堂はモバイルゲーム市場(アップルとグーグルで年間約270億ドルの収益)に参入しておらず、ライブサービス型ゲームの運営にも不向きだ。さらに、ゲーム機事業はヒット依存度が高く、一度の失敗から回復するのに6〜8年を要するリスクがある。
まとめ
このエピソードが最も印象的に描き出すのは、任天堂という企業の本質的な二面性である。同社は「枯れた技術の水平思考」と「名前がゲームであることがゲーム(The name of the game is the game)」という二つの哲学に導かれ、時に愚鈍なまでに自らの信念を貫く。その頑固さがWii Uのような大失敗を生む一方で、Switchのような革命的成功も可能にした。宮本茂の言葉「遅れたゲームはいつか良くなる。悪いゲームは永遠に悪い」は、任天堂がアートとビジネスの狭間で常に前者を優先してきた姿勢を象徴している。
ソニーやマイクロソフトがサブスクリプションとハイエンドグラフィックスに注力する中、任天堂は「ミッドコア」という独自のポジションを確立した。同社の最大の強みは、ゲーム体験の質に対する揺るぎないこだわりであり、それはスマートフォンゲームの「カジノ的ビジネスモデル」への明確なカウンターとなっている。130年の歴史を持つこの企業が、今なお「誤解され、過小評価されている」可能性は、投資家にとってもゲームファンにとっても、深く考察する価値のあるテーマである。
要点
- 任天堂はNES時代に95%の市場シェアを獲得しながら、セガ、ソニー、マイクロソフトとの「コンソール戦争」でシェアを約10%まで落とす経験をした
- ゲームボーイからDSに至る携帯ゲーム機事業が、家庭用ゲーム機での失敗を20年にわたって補い、任天堂の生命線となった
- 横井軍平の「枯れた技術の水平思考」は、ゲームボーイ、Wii、Switchという革新的製品の源泉となった
- セガのトム・カリンスキーによる4つの戦略(先制的値下げ、ソニックのバンドル、米国市場向けゲーム開発、攻撃的マーケティング)は、優れた競合戦略の模範例である
- 1991年のソニーとの提携破棄は任天堂史上最大の自滅的過ちであり、プレイステーションという強力な競合を生み出した
- Wiiの成功はスマートフォンの台頭により短期間で終焉し、任天堂は2012年に創業以来初の赤字を計上した
- Switchは「ミッドコア」市場を正確に捉え、携帯機と家庭用機の統合という新たなカテゴリーを創造した
- 任天堂の現在の競争優位性は「囲い込まれたIP」とNintendo Switch Onlineによるスイッチングコストにあり、デジタル事業の成長が今後の鍵を握る