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Acquired · 2026年9月14日

ホーム・デポ

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この記事でわかること
  • Home Depotは、世界最大の専門小売業者であり、時価総額3,500億ドル(約52兆5,000億円)を誇る。NetflixやAlibaba、Goldman Sac...
  • この物語の核心は、1978年に当時の勤務先Handy Danから解雇されたBernie Marcus(当時48歳)とArthur Blank(当時35歳)が、貯蓄も退...
  • [5:32] 創業者たちの出自とHandy Dan時代 Bernie Marcusは1930年代の大恐慌期、New Jersey州Newarkの貧しいユダヤ系移民家庭...
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Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal

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Home Depotは、世界最大の専門小売業者であり、時価総額3,500億ドル(約52兆5,000億円)を誇る。NetflixやAlibaba、Goldman Sachs、LVMH、Disneyよりも価値が高く、しかも北米にしか出店していない。1981年のIPOから今日まで、配当を再投資した場合のトータルリターンは年率約25%で複利成長し、S&P 500の中で首位のパフォーマンスを記録している。IPO時に1,000ドルを投資していれば、今日では約1,700万ドルになっている計算だ。同じ1,000ドルをS&P 500に投じていた場合の約17万ドルと比較すると、その差は歴然としている。AppleのIPOはHome Depotのわずか1年前だが、Home Depotへの投資はAppleを上回るリターンをもたらした。従業員数は47万人に達し、Amazonを除く米国の大手テック企業や、世界のどの銀行、自動車会社、ホテルチェーン、レストランチェーンよりも多い。

この物語の核心は、1978年に当時の勤務先Handy Danから解雇されたBernie Marcus(当時48歳)とArthur Blank(当時35歳)が、貯蓄も退職金もない状態から、当時のハードウェア店の5倍の広さを持つ巨大倉庫型ホーム・インプルーブメント店という革命的なアイデアを実行に移したことにある。New Yorkの投資銀行家Ken Langone(後にHome Depotの共同創業者となる)が「金の蹄鉄で尻を蹴られたようなものだ」と励ましたこの二人は、Sol Price(Price Club創業者)、Jamie Dimon、Ross Perotといった伝説的な人物の登場を経て、アメリカ小売史上最も偉大な複利成長の物語を紡いだ。本エピソードは、創業からBob Nardelli時代の混乱、Frank Blakeによる再生、そして今日に至るまでの全史を、綿密なリサーチと臨場感あふれる語りで描き出している。

5:32創業者たちの出自とHandy Dan時代

Bernie Marcusは1930年代の大恐慌期、New Jersey州Newarkの貧しいユダヤ系移民家庭に生まれた。子供の頃はギャングに属していたという逸話もあり、自伝『Kick Up Some Dust』の序文は友人であるラッパーのPitbullが書いている。家族で初めて大学に進学しRutgers大学を卒業したが、精神科医になる夢は家族の経済的事情で断たれ、薬剤師となった。その後、New York地区のディスカウントストアで店舗内店舗(concessionaire)を運営し、小売の教育を積んだ。Two Guysを経て、Los Angeles拠点の小売コングロマリットDalen Corporationの幹部となった。1960年代はアメリカ小売業の激動期であり、郊外にショッピングモールが建設され、Sears、Kmart、そしてSam WaltonのWalmartが台頭していた。Dalenはこうした新コンセプトの小売チェーンを次々と買収するポートフォリオ型の持株会社だった。

1972年、DalenはBernieを子会社Handy Dan(Los Angeles拠点のハードウェアチェーン)のCEOに任命した。Bernieは株式を一切持たない雇われ経営者だった。彼はDalen帝国から財務の才を持つ若きArthur BlankをCFOとして招き、二人でHandy Danを業界最高のオペレーターに育て上げた。興味深いのは、Home Depotの創業者たちが誰一人として建設業やハードウェア製造の出身ではなく、全員が小売と金融のプロフェッショナルだった点である。当時のハードウェア業界は、地域ごとの閉鎖的で洗練されていない断片化された市場だった。品揃えは限られ、木材はある店、工具は別の店、配管用品はまた別の店と、一箇所で全てを揃えることはできなかった。DIYという概念自体がまだ存在しなかった。

Dalenは1970年代のウォール街で流行した手法を用い、子会社の19%の株式を公開して親会社が財務諸表を連結し続けるという金融工学を行っていた。しかし1970年代のアメリカは石油危機とスタグフレーションに見舞われ、連邦金利は10%台後半に達した。郊外小売は打撃を受け、Dalenは1975年に破産申請し、ターンアラウンドの専門家Sandy SigeloffをCEOに迎えた。Sigeloffは「Ming the Merciless(無慈悲なミン)」と自称する冷酷な人物で、従業員を容赦なく削減することで知られていた。Handy DanだけはBernieとArthurの手腕により、崩壊しつつある帝国の中で輝く王冠の宝石であり続けた。

15:58Ken Langoneの登場とHandy Dan株の買い占め

Ken LangoneはLong Islandのイタリア系移民の子として何もない状態から這い上がり、ウォール街で頭角を現した伝説的な投資銀行家である。若くしてRoss Perotの会社EDSのIPO主幹事を獲得し、後にNew York証券取引所やGeneral Electricの取締役を務めた。彼は関わったほぼ全ての企業の株式を一度も売らないことで知られ、顧客や起業家への忠誠心は徹底している。1970年代半ば、KenはPhiladelphia拠点のハードウェアチェーンPanel RamaのIPOを手がけたが、業界が不調だったため、そのCEOに「この業界で最高のオペレーターは誰か」と尋ねた。答えは「カリフォルニアのHandy Danだ」だった。

KenはMoody's ManualでHandy Danの財務を確認し、株価3ドルに対し税引後利益が1株1.50ドル、つまり税引後利益のわずか2年分で取引されていることに驚愕した。彼は即座にBernieに電話し、「財務諸表は本当か」と確認、翌日にはLos Angelesへ飛んだ。Bernieは弁護士を同席させて昼食に臨んだが、KenはBernieが株式を一切持っていないことを知り、「今夜New Yorkに戻り、明日から公開株を全て買い占める。君も銀行に行って家を抵当に入れて同じことをすべきだ」と助言した。Bernieは「家族がいるのでリスクは取れない」と拒否したが、Kenは予告通り全ての公開株を買い集めた。唯一残ったのはBrooklynの修道会が保有する5万株(約2%)で、Kenが買収を申し出ると、司祭は「Langoneというのはイタリア系か。カトリックか。ならば地獄の苦しみを覚悟で教えてくれ、どうすべきか」と尋ね、Kenは「この条件なら手放さず保有すべきだ」と答えた。Kenは3ドルで買い始め、最終的に約20%を取得、最後の数株は9ドルで取引された。

Kenが株式を買い占めたことが、結果的にBernieとArthurの解雇、そしてHome Depot創業へとつながる最初のドミノとなった。Kenは事実上の取締役としてBernieとArthurを支援し、新店舗開設のたびに全国を飛び回って二人と行動を共にした。これは、Handy Danを自社の一部門と見なすDalenの新CEO、Sandy Sigeloffにとって極めて不快な状況だった。SigeloffはKenに19%の株式を買い戻すよう交渉を仕掛けたが、Kenは応じなかった。Sigeloffの部下Jeffrey Chaninが8ドルの株を10ドルで買うと申し出ると、Kenは12ドルを要求、Chaninが拒否して男子トイレに逃げ込むとKenも追いかけ、「12ドルと言ったのに断った。今は14ドルだ」と値上げした。Sigeloffが直接電話で14ドルを提示しても、Kenは「すでに断ったオファーは取り消された」と拒否した。

BernieはKenに「もう売ってくれ。Sigeloffが私の首を絞めている」と懇願した。Kenは「私が君を守っている唯一の存在だ。売れば彼は君を解雇する」と警告したが、Bernieは「Sandyは私が必要だ。私は大物だ」と楽観的に答えた。Bernieのこの信頼しやすい性格は、後にHome Depotで従業員からの絶大な忠誠心を生む要因となるが、この時は裏目に出た。Kenは1978年初頭、Sigeloffに1株25.50ドル(平均取得単価5〜6ドルから約2年で)で売却した。Kenが生涯で唯一売却した企業の一つである。Sigeloffが「なぜ25.50ドルという半端な数字なのか」と尋ねると、Kenは「本当に厳しい交渉をしたように見せかける必要があるからだ」と答えた。1978年1月、SigeloffはKenの株式を買い取り、Brooklynの修道会を除くほぼ100%を所有した。そして予告通り、3ヶ月後にBernie、Arthur、そして監査マネージャーのRon Brillを解雇した。解雇の口実は、三人が労働組合との交渉で国家労働関係法に違反したというSigeloffが捏造した告発だった。

43:55Ross Perotとの破談とPat Farrahの加入

解雇の翌日、BernieはNew YorkのWaldorf AstoriaホテルでKenと朝食をとった。Bernieは「48歳で貯蓄もなく、家族を養えない。Sigeloffの労働関係訴訟で刑務所に行くかもしれない」と取り乱した。Kenは「落ち着け。君は金の蹄鉄で尻を蹴られたんだ。今こそ、君が話していた会社を始める時だ」と励ました。数ヶ月前、KenがHoustonのHandy Dan新店舗開設に同行した際、Bernieは「誰かが我々を潰す。完璧なホーム・インプルーブメント店のアイデアが頭にあるが、これはそれではない。誰かがやれば、この店は構造的に優れたビジネスモデルで破壊される」と打ち明けていた。BernieはSan Diegoの友人Sol Price(Price Club創業者)を訪ね、倉庫がそのまま店舗となり、バックルームも卸売業者もなく、メーカーから直接仕入れてわずかなマージンで販売するという革命的なコンセプトを見ていた。BernieはSolに相談し、「才能があるならSigeloffに構わずやれ」と背中を押された。

KenはDallasに一行を集め、Ross Perot(EDS創業者、後に大統領選に出馬)に会った。Perotは200万ドルを出資し70%の株式を取得する契約に合意しかけたが、Bernieが経営スタイルをめぐってPerotと大喧嘩し、土壇場で破談となった。争点は、Bernieが古いCadillac(Handy Dan時代の社用車)に乗っていたことだった。Perotは「EDSの社員はChevroletしか乗らない。コストに厳格だ」と主張し、Bernieは「これは古いCadillacだ。原則の問題ではなく、馬鹿げた美徳のシグナリングだ。あなたは私を従業員のように扱っている」と反論した。この決裂は、もしPerotが保有し続けていれば2,230億ドル(約33兆4,500億円)の損失となった、ビジネス史上最も高くついた意見の相違かもしれない。Kenは「私の業界では売れないものは値上げする」と述べ、40人の個人投資家から5万ドルずつ集めてシンジケートを組み、投資家に50%、Ken自身に5%、経営陣に45%を配分する新たな資本構成を組んだ。

BernieとArthurはLos Angelesに戻り、最初の店舗の場所を探した。しかし、誰かが既にSan DiegoのPrice Clubを見て、LAでホーム・インプルーブメント版を始めていた。HomeCoという13万平方フィート(初期のHome Depotの約2倍)の倉庫店で、Pat Farrahという風変わりな人物が運営していた。BernieとArthurがKenを呼び、HomeCoの買収を提案した。Kenが到着すると、Patは1時間遅刻し、パウダーブルーのベロアのレジャースーツ(サイズが小さすぎて尻が出ている)に金のチェーンと大きな金時計という出で立ちだった。KenはArthurに「これが君の冗談か」という目を向けたが、Patは「小売業におけるMichelangelo」と評される天才マーチャンダイザーだった。Patは壁をフォークリフトで破壊するなどの伝説を持つ人物で、小売業に「熱」を生み出す天才だった。

HomeCoの買収を進める中で、Patは売上は本物だが、サプライヤーへの支払いを一切しておらず、実質的に債務超過であることが判明した。監査人は「この店のマージンはオーナーが思っているより遥かに低い」と指摘した。BernieはPatに「HomeCoは買わない。君は破産する。しかし、破産後にチームに加わり、マーチャンダイジングを担当してほしい」と提案した。Patは後に、HomeCoで損をした投資家たちに、その損失額に相当するHome Depotの株式を渡して補償した。創業チームは、Bernie(小売)、Arthur(財務・オペレーション)、Ken(資金調達・精神的支柱)、Pat(マーチャンダイジング)という「小売のアベンジャーズ」として完成した。

1:05:03最初の店舗と独自のオペレーティング・システム

創業チームはAtlantaを最初の出店地に選んだ。南東部の人口動態が良好で、郊外拡大の余地があり、カリフォルニアや北東部と違って良質な不動産が安価だった。さらにJCPenneyがKmartの模倣子会社Treasure Islandの失敗を受けて、Atlanta郊外の4店舗をサブリースで提供した。マーケティング・コンサルタントが提案した「Bad Bernie's Build All」(Bernieを牢屋に入れる広告で「価格が安すぎて逮捕された」というコンセプト)は却下され、投資家の妻が提案した「Home Depot」が採用された。イニシャルはHD、つまり解雇されたHandy Danと同じで、皮肉な復讐となった。コンサルタントはオレンジ色を企業カラーに提案し、サーカステント用のキャンバス地を看板に使うことでコスト削減も実現した。

1979年6月22日、Atlantaで2店舗が同時開店した。Handy Dan解雇からわずか1年余りだった。初期の店舗はKmartの建物内にあり、天井は低く、床はリノリウムで、今日のHome Depotとは似ても似つかなかった。開店に際して新聞広告が手違いで掲載されず、Bernieと店員が駐車場で「1ドル札を無料配布」の看板を掲げて客を呼び込むという不格好なスタートだった。開店前夜、2店舗のマネージャーがリノリウムの床を磨き上げたところ、Pat Farrahが午前4時に激怒し、BernieとArthurをベッドから叩き起こしてフォークリフトで床を傷つけさせた。「清潔すぎると誰も来ていないように見える。Home Depotは行動の場だ」というのが理由だった。また、資本制約から十分な在庫を仕入れられなかったため、PatはDel Mar Cabinet Companyから500箱の空き箱を借りて棚に並べ、2,000個の空のペンキ缶を10フィートの高さに積み上げて「在庫が豊富に見える」演出をした。

最初の年、1979年は6ヶ月の営業期間で700万ドルの売上を記録し、1980年には100万ドルの利益を出した。価格は競合より10〜25%安く、粗利率は30%(当時の業界標準45%に対し)だった。メーカーから直接パレットで店舗に配送することで中間業者を排除し、低マージンでも大量販売で利益を確保するモデルだった。Bernieの仮説は「広い店舗、多いSKU、多い在庫への投資は、規模が大きくなるほどリターンが増える」というものだった。1980年、Home DepotはLowe'sの2倍の広さで3倍の商品数を持ちながら、4倍の取引件数を記録した。これは、より多くのSKUと広い店舗への投資が、口コミ、ワンストップショッピング、購買熱を生み、投資収益率を高めるという逆説的な効果を証明した。

1980年、JCPenneyがTreasure Islandを完全に閉鎖し、Floridaの店舗を提供した。しかし資本が不足していた。1979年に100万ドルを失い、1980年に100万ドルの利益を出したが、Florida進出には不十分だった。Kenは「IPOをやろう」と提案した。1981年、金利が20%超のピークに達する中、4店舗のチェーンをIPOするという前代未聞の試みだった。Bear Stearnsが6百万ドルの調達を目標としたが、直前に3百万ドルに半減。Kenは既存投資家に「キャッシュアウトせず、全額をバランスシートに回そう」と説得した。この決断により、初期投資家は2倍のリターンを逃した代わりに、今日まで保有していれば5万倍以上のリターンを得た。IPOは最終的に4百万ドルを調達し、公開時の時価総額は3,200万ドル(インフレ調整後で約1億2,200万ドル)だった。この小さな時価総額が、Appleを上回るリターンの源泉となった。

1:24:35独自のオペレーティング・システムと競合の排除

Home Depotのモデルは、単なる「ハードウェア版Costco」ではなかった。Costcoは一般商品小売業者だが、Home Depotは専門小売業者である。専門小売では、価格・品揃え・利便性の「聖なる三位一体」だけでは不十分で、各専門市場に固有の顧客サービスが必要となる。タイヤ店なら迅速な取付、美容店なら試供品とメイクアップ、AppleやBest BuyならGenius BarやGeek Squadがそれにあたる。Home Depotはホーム・インプルーブメントにおける顧客サービスを事実上発明した。それ以前のハードウェア店では、顧客が商品の場所を知らなければお手上げだった。Home Depotは、プロの職人を店員として採用し、顧客がプロジェクトを遂行する方法を教えるという文化を築いた。DIY愛好家がデッキの作り方や浴室のタイル張りを学ぶ手段は、それまで本屋でハウツー本を買うか、業者を雇うかしかなかった。

Home Depotの店員採用モデルは、当時の常識から見れば狂気じみていた。プロの配管工や電気工、大工が小売店員になることは通常考えられない。しかし、請負業者は収入が不安定で、移動が多く、肉体労働で、引退後の保障もない。Home Depotは安定した勤務時間、同じ職種の仲間、肉体労働ではない仕事を提供した。このモデルは、顧客が単純なプロジェクト(リビングの壁塗り)を完了するのを支援することで、顧客の自信を高め、次のより大きなプロジェクト(ドライウォール)へと導き、長期的に客単価を増大させる効果があった。インターネットもYouTubeもない時代、これがDIYを学ぶ唯一の方法だった。

Home Depotのもう一つの革新的要素は、従業員への株式付与だった。Salaried従業員(アシスタント・ストア・マネージャー以上)にはストックオプション、時間給従業員には15%割引の株式購入プログラム(価格が下落した場合の損失補填保証付き)が提供された。ストア・アソシエイトの研修の大部分は、株式と株価、そして自分の仕事が株価にどう影響するかについてだった。初期のHome Depotのアソシエイトからは数千人の百万長者が生まれた。Ken Langoneは「人々の基本的本能に訴えかければ、良いことが起こる」と述べている。これはシリコンバレーのテック企業では常識だが、小売業では前例がなかった。Frank Blake(後にCEO)は「文化の健康状態を示す最良の指標は、休憩室でアソシエイトが株価を見ていることだ。我々はそれを奨励している」と語った。

Home Depotのモデルは、1980年代に多くの模倣者を生んだ。Builder Square、Home Club、Home Quarters、Warehouse、Mr. How Warehouseなどが資本を集めて参入したが、今日まで生き残ったものはない。その理由は、Home Depotが単なる倉庫型ディスカウント店ではなく、専門小売業としての顧客サービスを統合した点にある。模倣者たちはWalmartやCostcoのように一般の小売従業員を雇い、Home Depotの労働モデルを模倣しなかった。また、Home Depotは「ストア・サポート・センター」(本社ではなく)という呼称に象徴される、顧客サービス至上主義の文化を築いた。あるアソシエイトは「今日は8つのタスクがあったが、一つも終わっていない。顧客が常に優先だからだ」と語ったという。

Arvind Navaratnam(Worldly Partners)の100ページに及ぶ研究によれば、「ビッグボックスの倉庫フォーマット自体が1979年当時最も目に見える革新だったが、より永続的な優位性はその下にあるオペレーティング・システムだった。Home Depotは大量販売モデルを構築し、規模の利益を顧客と共有し、より多くのトラフィックを生み、サプライヤー関係を強化し、より広い品揃えを支え、その結果得られた生産性を店舗、アソシエイト、物流、技術、価格に再投資し、規模が拡大するにつれて模倣が困難になる自己強化型のフライホイールを生み出した」。1989年、Home DepotはLowe'sを抜いてアメリカ最大のホーム・インプルーブメント小売業者となり、同年Handy Danは倒産した。1986年には60店舗で10億ドルの売上を達成し、1989年には118店舗に拡大した。

1:46:01Arthur BlankのCEO就任と初期の亀裂

1996年、Home Depotは年間200億ドルの売上を達成し、4日ごとに新店舗を開設、600店舗以上(うち32店舗は国際)を展開していた。同年、Atlantaオリンピックの主要スポンサーとなり、Visa、Coca-Cola、Nikeと並ぶブランド認知を獲得した。この時期、Home Depotはプロの請負業者市場にも本格的に参入した。ビジネス信用口座、DeWaltやMilwaukeeなどのプロ向け工具、専任のプロ向け販売員、プロ・デスク、プロ向け価格設定、現場配送を開始した。2015年の統計では、DIY顧客は年平均5回の来店で330ドルを支出するのに対し、プロ顧客は年平均66回の来店で6,500ドルを支出する。プロ顧客の中には年間数十万ドルを費やす者もいる。

1997年、BernieはCEOを退任しArthurに引き継いだ。しかし、急速な成長が隠していた問題が表面化し始めた。同年、Home Depotは史上最大級の企業性差別訴訟の和解に合意した。BernieとArthurは自伝で主張を否定しているが、この訴訟は当時の経営管理が必ずしも万全ではなかったことを示している。また、Home Depotは「男の場所」であり、男性が男性からハードウェアを買う場所だった。Lowe'sは後にこの点を突いて女性顧客を開拓することになる。さらに、BernieとArthurの自伝には、初期の店舗での派手なパーティーや営業時間後の飲酒の逸話が記されており、これらは後に整理された。

もう一つの問題は、Home Depotの哲学の一部だった「急進的分権化」だった。店舗が地域市場の知識を活かして適切な商品と数量を仕入れ、顧客と密接に連携することで、Bernieは店舗あたりの売上が15〜20%高くなると推定していた。しかし、規模が拡大するにつれ、分権化の利益は、購買力を集中化することで得られる絶対的な規模の経済に比べて見劣りするようになった。57の地域や店舗レベルのバイヤーがサプライヤーと交渉すると、最高の価格を得られない。Home Depotは全国的なハードウェアチェーンという概念を発明した企業であり、それ以前は全国規模の購買は存在しなかった。テーブルソーはテーブルソーであり、地域ごとに異なる必要はない。

第三の問題は市場の変化だった。1990年代末から2000年代初頭にかけて、アメリカの住宅市場が急速に膨張し、サブプライム危機へとつながる状況が生まれた。この時期、Lowe'sが本格的な競合として復活した。1990年、Lowe'sは地域の競合と小規模店舗の動向を研究し、Home Depotのモデルが正しいと判断して、最初の倉庫型店舗を開設、旧来のフォーマットを閉鎖してHome Depot型店舗のみを展開するという大胆な転換を行った。Lowe'sは「Improving Home Improvement」というスローガンで、若年層、女性、カジュアルなDIY顧客(週末の「スプラッサー」対「ウォリアー」)をターゲットに、キッチン・バス用品や家具を中心に、Home Depotより快適な買い物体験を提供した。これはインターネットの普及と重なり、消費者がプロの職人から学ばなくてもDIYの方法を学べるようになった。

2000年、Arthurは取締役会でKenから後継者について問われ、社内に適任者がいないことを認めた。Home Depotはストア・マネージャーの75%が大卒でないという内部昇進の道を築いていたが、創業者を継ぐ経営幹部を育成していなかった。取締役会は外部サーチファームを雇い、まずJamie Dimon(Citigroupを追われたばかり)を候補とした。JamieはHome Depotの創業者を愛していたが、自身はHome Depotに一度しか行ったことがなく、この機会を見送った。このプロセスで6ヶ月を浪費した。KenはGeneral Electricの取締役でもあり、Jack Welchの後継者選びを間近で見ていた。1999年末、Fortune誌はJack Welchを「世紀の経営者」と称え、GEのオペレーショナル・エクセレンスとSix Sigmaの文化は絶賛されていた。

2000年11月、Jack WelchはJeffrey Immeltを後継者に指名した。他の候補者だったJames McNerneyは3M(後にBoeing)のCEOに、Bob NardelliはKenがGEの取締役としてよく知り愛していた人物だった。KenはNardelliに電話し、Bernieに20年前に使ったのと同じ「金の蹄鉄で尻を蹴られた」という言葉をかけた。取締役会はNardelliに社長兼COOの職をオファーし、Arthurの後継者とすること、GEのストックオプションを補償する1億5,000万ドルのエクイティ・パッケージを提示した。Nardelliは一度承諾したが、直前にリクルーターを通じて「CEOでなければ来ない」と伝えた。Arthurは「承知した」と答えたが、心の底では納得しておらず、後に「彼は大きな間違いだった」と述べている。この件でArthur、Bernie、Kenの間に大きな亀裂が生じ、Bernieは取締役会に残っていたが、関係は深刻に損なわれた。ArthurはCEOを辞任し、取締役会に数ヶ月残った後、完全に会社を去った。

1:56:07Bob Nardelli時代とその崩壊

Nardelliの最初の数年間は成功した。Ken Langoneは今でも「最初の4年間はNardelliが触れるもの全てが黄金に変わった」と述べている。2000年当時、Home Depotは4四半期連続で既存店売上の成長が鈍化し、古い店舗は荒廃し、Lowe'sが復活しつつあった。Nardelliは「会社は20年間スタートアップモードだった」と評し、オペレーショナル・エクセレンスを推進した。購買、補充、マーチャンダイジングなど全てのシステムを集中化し、9つの購買オフィスを1つに統合してサプライヤーからの価格を改善、新しい技術システムに投資した。しかし、Nardelliは起業家精神が会社の成功にどれほど重要だったかを見落としていた。集中化はデータを一箇所に集め、一括交渉や分析を行う場合には有益だが、顧客に最も近い場所で意思決定を行う場合には有害である。

Nardelliは店舗のアソシエイトを大量にパートタイムの一般小売労働者に置き換えた。知識豊富なプロの職人を排除し、16歳のパートタイム従業員をレジに配置した。Arvindの研究によれば、店舗あたりのアソシエイト数は2000年から2006年にかけて200人から170人に減少した。ストア・マネージャーの基準も変更され、大卒者が優先された。これにより、店舗アソシエイトからの昇進経路が事実上消滅した。Nardelliの在任中、Home Depotの顧客満足度は主要米国小売業者の中で最下位に転落した。しかし、売上と利益は倍増し、店舗数は5年間で1,100から2,000に増加した。Nardelliは取締役会から6年間で約2億ドルの報酬を得たが、株価連動報酬を拒否した。「株価は自分がコントロールできない唯一の指標だ」と主張した。これはHome Depotのモデルの根幹に反していた。従業員は「良い仕事をすれば株価が上がり、自分が金持ちになる」という約束に基づいて働いていた。

Nardelliの在任中、既存店売上は横ばいが続き、Lowe'sは200%の株価上昇を記録した。Nardelliは200億ドルの自社株買いと配当を実施したが、株価は動かなかった。これは機関投資家が将来の利益の現在価値が成長していないと判断したことを意味する。NardelliはGE的なコングロマリット戦略で買収による拡大を試み、Home Depot Supplyなどの隣接事業を構築した。粗利率は28〜30%から33%に上昇し、Costcoモデルから離れた。2006年の年次株主総会で、Nardelliは取締役会を欠席させ、一人で登壇した。Joe Nocera(New York Times)は「彼は今年の『過払いCEO』の典型だ。Home Depotの株価は12%下落し、Lowe'sは173%上昇した。『成果に基づく報酬』ならぬ『脈拍に基づく報酬』だ」と書いた。株主が質問するとマイクは切られ、会場からは「恥ずべき」「傲慢」という声が上がった。

2007年1月2日、Ken LangoneはDallasで特別取締役会を招集し、Nardelliを解雇した。Nardelliは即時支払いの1,800万ドルの現金退職金と、2億1,000万ドル相当の「退職パッケージ」を受け取った(Kenの著書によれば実際には一部のみ)。ニュースが報じられると、店舗のアソシエイトたちは祝賀し、ハイタッチした。Nardelliは後にChryslerのCEOとなり、金融危機を経てFiatに買収される道を辿った。取締役会は後継者として、NardelliがGEから連れてきたFrank Blake(M&Aと企業開発担当)を選んだ。BernieはKenに「よくもまあ、また別のGE野郎を私の会社に連れてきたな」と怒鳴った。しかしFrank BlakeはNardelliとは全く異なり、Home Depotが必要としていた人物だった。

2:24:24Frank BlakeのターンアラウンドとEコマース革命

Frank Blakeは弁護士出身で、ワシントンD.C.で公務員として働き、最高裁判所の書記官を務め、GEでM&A部門の責任者に昇進し、Nardelliと共にHome Depotに移った。P&Lの責任者ではなく、店舗の現場とも接点がなかったが、文化と創業原則を理解していた。彼の息子がHome Depotで働いており、食卓での会話を通じて店舗の実情を知っていた。CEO就任直後、Frankは取締役会に「Bernieに電話したい」と申し出た。Bernieは既に引退し、会社の状態に失望していたが、FrankはBernieを説得してFloridaで朝食を共にし、一緒に店舗視察を行った。最初に訪れたのはHome DepotではなくCostcoだった。Bernieにとって、Home Depotの店舗はもはや偉大な小売業者の価値観を体現していなかった。FrankはBernieとの関係を修復し、文化の核心を直接学んだ。Bernieは「逆ピラミッド」について語った。CEOが最下層の小さな三角形で、その上にアソシエイト、最上層に顧客が位置し、全員がアソシエイトを支援するという考え方だ。

Frankの取締役会への第二の要請は、CEO報酬の問題を新聞から消し去ることだった。彼は報酬の90%をストックオプションで受け取ることを提案し、会社、株主、従業員との利害を一致させた。次にFrankは新店舗拡張を完全に停止した。2008年に2,300店舗だったHome Depotは、18年後の今日でも2,400店舗に過ぎない。2008年に約30店舗を閉鎖し、パイプラインの10億ドルを償却した。その後11年間、年間4〜5店舗を除いて新店舗を開設しなかった。代わりに既存店の生産性に集中し、売上を700億ドルから1,300億ドル、純利益を40億ドルから110億ドルに増加させた。店舗あたりの売上は3,000万ドルから6,500万ドルに倍増した。FrankはNardelliが買収した事業の一部を売却した。Home Depot Supply(住宅建設業者、インフラ請負業者、自治体、メンテナンス専門家にサービスを提供する流通事業)は2006年に売上の13%を占めていたが、2007年にプライベートエクイティ・コンソーシアムに約83億ドルで売却された。

Frankは83億ドルを全て自社株買いに充てた。最初の年に発行済株式の14%を買い戻し、在任中に30%を買い戻した。買い戻しは主に30〜50ドルの範囲で行われ、今日のHome Depotは340ドルである。これは住宅バブルが崩壊しつつある2007年夏から金融危機を通じて実行された、極めて大胆な賭けだった。2008年から2012年にかけてHome Depotの株価は132%上昇し、2013年は33%、2014年は27%、2015年は26%と上昇を続けた。Frankの最大の功績はEコマースだった。インターネット、特に2006〜2007年のYouTubeの登場は、Home Depotの核心的価値提案(店舗での知識提供)に対する脅威だった。Frankは2009年に12の大型流通センター(Rapid Deployment Centers)を開設し、サプライチェーン

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