
CAA(マイケル・オービッツと共に)
- マイケル・オヴィッツとCAA——ハリウッドの権力構造を根底から変えた「夢の工場」 本エピソードは、Acquiredのシーズン9最終回として、ハリウッドで最も影響力のあった...
- [4:41] ジュラシック・パーク——一冊の原稿から生まれた10億ドル・フランチャイズ オヴィッツが最も誇りに思う「パッケージ」の一つが、マイケル・クライトンの『ジュラシ...
- オヴィッツは毎週のようにクライトンとランチを共にし、何とか彼の創作意欲を刺激しようと試みた。ある日、クライトンがぽつりと言った。「南米沖の遊園地に、3人の若者と1人の年配...
英語Podcastの要点を、聴く前に日本語で把握したい人。
Acquired / Ben Gilbert and David Rosenthal
マイケル・オヴィッツとCAA——ハリウッドの権力構造を根底から変えた「夢の工場」
本エピソードは、Acquiredのシーズン9最終回として、ハリウッドで最も影響力のあったエージェント、マイケル・オヴィッツを迎え、彼が1975年に創業したクリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)の全貌を描き出す。オヴィッツは、スタジオシステムの時代に「パッケージング」という概念を武器に、タレント側に圧倒的な交渉力を与え、ハリウッドのパワーバランスを一変させた。このエピソードは、単なる映画業界の裏話ではなく、後にマーク・アンドリーセンとベン・ホロウィッツがシリコンバレーで起こした変革の青写真が、まさにここにあったことを示す、示唆に富んだ内容となっている。オヴィッツの語り口は率直で、時に自嘲的でありながら、その戦略的思考の鋭さは圧倒的だ。
ジュラシック・パーク——一冊の原稿から生まれた10億ドル・フランチャイズ
オヴィッツが最も誇りに思う「パッケージ」の一つが、マイケル・クライトンの『ジュラシック・パーク』である。クライトンは1970年代後半からオヴィッツのクライアントであり、二人は単なる仕事上の関係を超えた親密な友情で結ばれていた。オヴィッツはクライトンを「レオナルド・ダ・ヴィンチのような男」と評し、その知性の広さと深さを称賛する。しかし、クライトンは深刻なスランプに陥っていた。2年近く、満足のいく作品が書けなかったのだ。
オヴィッツは毎週のようにクライトンとランチを共にし、何とか彼の創作意欲を刺激しようと試みた。ある日、クライトンがぽつりと言った。「南米沖の遊園地に、3人の若者と1人の年配者が取り残される。その遊園地の核は、先史時代の動物だ」。オヴィッツは即座に「息子も私も父も恐竜が大好きだ」と応じ、3時間にわたって古生物学や、20世紀に恐竜を繁殖させることの可能性について語り合った。5ヶ月後、クライトンから原稿が届く。オヴィッツは夕方6時半から読み始め、朝の3時までかけて読み終え、翌朝7時に「この10年で最高の作品だ」と電話した。
ここからがオヴィッツの真骨頂である。彼はこの映画を監督できるのはスティーブン・スピルバーグただ一人だと確信していた。問題は、スピルバーグがCAAのクライアントではなかったことだ。オヴィッツはスピルバーグに電話し、「今夜は読まないと知っているので、奥さんのケイト・キャプショーに許可をもらう」と言い、妻を通じて緊迫感を演出するという古典的なエージェントの手法を使う。スピルバーグは翌朝、「この本にノックアウトされた」と電話をかけてきた。この時点で、本はまだ出版前、脚本すら存在していなかった。
オヴィッツはさらに、ユニバーサル・スタジオの社長シド・シェインバーグに対し、「良い知らせと悪い知らせがある」と切り出す。良い知らせは、クライトンの原作と脚本、スピルバーグの監督、キャシー・ケネディのプロデュースが揃ったこと。悪い知らせは、「ユニバーサルはこれを所有していない」ことだった。つまり、スピルバーグのファーストルック契約は無効となり、ユニバーサルは他スタジオと同条件で競争しなければならなかった。オヴィッツは24時間の猶予を与え、ユニバーサルとCAA側が50:50で出資する条件を提示。シェインバーグは12時間後に承諾した。
この取引の革新性は、旧来のスタジオシステムでは考えられなかった点にある。かつては、監督も俳優も脚本家も全員がスタジオと長期契約を結び、スタジオの「社員」として働いていた。しかしCAAは、全てのクリエイティブ要素を自ら調達し、「パッケージ」として一括で売り込むことで、スタジオを単なる「配給会社」に格下げした。ジュラシック・パークは全世界で10億ドル以上を稼ぎ出し、クリエイティブ陣が50%、CAAはその10%である5%を手にした。
スタジオシステムの終焉と「パッケージング」の誕生
オヴィッツは旧来のハリウッドを、NFLのようなスポーツリーグに例える。5つのメジャースタジオが「チーム」であり、俳優や監督は「選手」だった。彼らは高給を得ていたが、作品の成功に応じたバックエンド(利益配分)を得ることはほとんどなかった。この状況を変えたのが、ルー・ワッサーマンである。ワッサーマンはエージェント時代、ジミー・スチュワートのために『ウィンチェスター73』で「フラットフィー(固定報酬)の代わりにバックエンドを受け取る」という画期的な契約を勝ち取った。これが、タレントが作品の成功に参加する最初の事例となった。
しかし皮肉なことに、ワッサーマンは後にエージェント業を営むMCAでユニバーサル・スタジオを買収し、スタジオ側に回る。オヴィッツはこれを「アナキン・スカイウォーカーがダークサイドに堕ちたようなもの」と表現する。ワッサーマンは「10%を取るより90%を取る方が良い」と判断したのだ。さらに彼は、MCAがエージェンシーとスタジオの両方を所有するという、究極の独占状態を作り出した。しかし、ワシントンの反トラスト法の圧力により、MCAは解体される。オヴィッツはここで興味深い「噂」を紹介する。ワッサーマン自身がケネディ家に働きかけ、MCAの分割を促したというのだ。もし本当なら、それは天才的な策略だった。なぜなら、分割された小規模エージェンシーはワッサーマンにとって脅威にはならなかったからだ。
この空白を突いたのがCAAだった。オヴィッツは「我々はMCAをステロイドで強化したような存在だった」と語る。CAAは決して「裸の」クライアントやアイデアをスタジオに売らなかった。脚本、監督、主演俳優——すべての要素を自ら調達し、完全なパッケージとして売り込んだ。スタジオには「買うか、他に行くか」の二択しか残されていなかった。これにより、CAAは事実上、価格を設定する立場になった。『ゴーストバスターズ』『レインマン』『トゥーツィー』——CAAがパッケージした350本以上の映画は、すべてこの方式で作られた。
コカ・コーラと文化の予測——エージェンシーを超えたCAA
CAAの革新性は映画業界だけにとどまらなかった。オヴィッツは、エージェントの仕事は「文化の方向性を読むこと」だと語る。彼は全社員に毎月100誌以上の雑誌を読むことを推奨し、自らも200誌に購読していた。『ゴルフ・ダイジェスト』を読んだのは、ポール・ニューマンと車の話をするため。『ヴォーグ』や『マリ・クレール』を読んだのは、女優とファッションについて語るためだ。この「文化の先読み」が、CAAをコカ・コーラの広告代理店にまで押し上げた。
1980年代、コカ・コーラはペプシとの「コーラ戦争」に苦戦していた。オヴィッツは、アレン社のカンファレンスでCEOのロベルト・ゴイズエタと社長のドン・キーオに直接「広告のやり方が間違っている」と切り出した。彼の指摘はシンプルだった。「同じコマーシャルを『となりのサインフェルド』でも昼間の番組でも深夜番組でも流している。視聴者層が全く違うのに」。CAAは、7本のコマーシャルに使われていた予算で、30〜40本のコマーシャルを制作することを提案した。しかも、それぞれを異なるデモグラフィックに合わせて作り、季節ごとに「リレー方式」で流すというものだ。マスコットとして「シロクマ」も提案された。
競合のマッキャン・エリクソンは35人のチームで臨んだが、CAAはたった5人。オヴィッツは前日にチーム全員に新しいアルマーニのスーツを買い与え、完璧な準備で臨んだ。プレゼンテーションでは35本のアイデアをすべて実演してみせた。結果、コカ・コーラは35本すべてを承認。CAAはたった6人で、マッキャン・エリクソンの300人を置き換えた。この成功の裏には、CAAのクライアントであるトップ監督たちが映画の合間にコマーシャルを手掛けたことも大きい。リチャード・ドナー(『スーパーマン』監督)は「小切手を現金化したよ。映画の合間で、これほど嬉しいことはない」と笑ったという。
ゼロからの出発——ウィリアム・モリスからの離反
CAAの創業は、1970年代のウィリアム・モリス・エージェンシーでの「悪いスタッフミーティング」に端を発する。当時20代だったオヴィッツたち若手エージェントは、テレビ部門の責任者サム・ワイスボードが「アン・ミラーと契約した」と誇らしげに発表したことに衝撃を受けた。アン・ミラーは1950年代のスターだが、若手たちは「我々が契約すべきはロバート・レッドフォード、ポール・ニューマン、ダスティン・ホフマンだ」と反発した。年配の幹部たちは激怒し、この溝は決して埋まらなかった。
決定的な出来事は、若手全員のトレーニングを担当していたフィル・ウェルトマンが解雇されたことだ。ウェルトマンは元海兵隊のドリル・サージャントで、机の上に立って怒鳴り散らすような厳しい指導者だったが、若手たちは彼に深い敬意を抱いていた。彼が涙ながらに解雇を告げられた姿を見て、5人の若手——オヴィッツ、ビル・ヘイバー、ロン・マイヤー、ローランド&マイク・ローゼンフェルド——は決意を固めた。「自分たちのやり方でビジネスをする」。これがCAAの始まりである。
彼らは意図的にテレビ専門でスタートした。なぜなら、映画は制作に何年もかかるのに対し、テレビはSAG(映画俳優組合)のルールで毎週木曜日に支払いが発生するため、キャッシュフローが安定していたからだ。創業資金はたった10万ドル。借金は一切せず、6ヶ月で返済した。1978年、映画部門への進出を決意し、オヴィッツ自らが映画ビジネスを立ち上げる。
最初の大物クライアントはショーン・コネリーだった。きっかけは、ビバリーヒルズの税務弁護士ゲイリー・ヘンドラーとの出会いである。オヴィッツはヘンドラーをクライアントとして獲得し、親密な関係を築いた。ヘンドラーは当時、ハリウッドのほぼすべての大物スターの税務を担当していた。彼がコネリーをCAAに紹介したのだ。オヴィッツは「ボンド映画で育った身で、何を話せばいいか全くわからなかったが、知ったかぶりの演技でアカデミー賞を取るつもりでやった」と振り返る。コネリーはそれまで3作連続で不振だったが、CAAは彼のキャリアを立て直した。
その後、ダスティン・ホフマン、ロバート・レッドフォード、シドニー・ポワチエと、次々に大物がCAAに移籍した。オヴィッツは毎週金曜日に『バラエティ』、月曜日に『ハリウッド・レポーター』に真っ赤な全面広告を掲載し、新たなクライアントを発表した。そしてその広告を切り抜き、かつて「お前たちは絶対にレッドフォードやホフマンを獲れない」と言った競合エージェンシー、アダムス・レイ&ローゼンバーグに郵送したという。
チーム制と情報システム——CAAの経営術
CAAが他社と決定的に異なったのは、「チーム制」の導入である。ウィリアム・モリスでは、一人のエージェントが一人のクライアントを独占的に担当していた。しかしオヴィッツは、これでは長期的に関係が悪化すると考えた。CAAでは、一人のクライアントに複数のエージェントがチームで対応した。クライアントが3人、4人、5人とエージェントを替えても、CAAを離れることはなかった。25年間で失ったクライアントは5〜6人だけだという。
このチーム制を支えたのが、独自の情報システムである。電子メールが存在しない時代、CAAは「バック・スリップ」と呼ばれるシステムを運用していた。各エージェントは自分の名前が印刷された厚手の紙を持ち、そこにメモを書いて他のエージェントに送る。例えば「ベンがスコセッシと話した。『グッドフェローズ』を推薦。質問があれば電話を」といった内容だ。受け取った側は読んだことを示すために線を引いて返送する。これがCAAの「電子メール」だった。平均的なエージェントは1日に200〜250本の電話を処理した。15〜20秒の短い通話も含めて、だ。
報酬体系も独自だった。他社は「マーケットディール」、つまりエージェントの要求額をそのまま支払う方式を取っていた。CAAは逆で、前金は少なくし、年末に業績に応じて「他社より多く」支払った。あるエージェントが競合ICMからヘッドハンティングされた際、オヴィッツは「絶対に行け」と指示した。ICMのジェフ・バーグが提示した年収100万ドルに対し、そのエージェントは「それだと75%の減俸になります」と答えた。オヴィッツはこの話を聞いて三つの効果を得た。自社のエージェントに市場価値を認識させ、競合にCAAの給与水準を知らしめ、そしてエージェントの忠誠心を高めたのである。
投資銀行業務とソニーへのコロンビア売却
1980年代後半、ハリウッドのメジャースタジオは軒並み経営危機に瀕していた。ユニバーサルは乗っ取り屋の標的になり、コロンビア、MGM、ワーナーも同様だった。オヴィッツは「もしスタジオが潰れれば、我々も終わりだ」と危機感を抱く。しかしCAAは映画をプロデュースすることを禁じられていた。弁護士フランク・ロスマンの意見書によれば、ギルド(組合)との関係や、クライアントである組合幹部との衝突を避けるため、プロデュース業務には進出できなかった。
そこでオヴィッツは、スタジオに資金を供給する「投資銀行」の役割を自ら引き受ける。彼は日本企業との関係構築に乗り出した。ソニーの森園晃(当時ナンバー2)との関係を皮切りに、盛田昭夫とも直接会うようになる。盛田はベータマックスがVHSに敗れたことを悔やみ、コンテンツを所有したいと考えていた。オヴィッツは自宅で、盛田、カーク・カーコリアン(MGMオーナー)との会合をセットする。盛田は会合に小さな箱を持参し、テーブルの中央に置いた。カーコリアンがその箱に釘付けになる中、盛田は蓋を開け、試作段階の小型ビデオカメラを取り出した。自然光で部屋の様子を撮影し、テレビで再生してみせると、カーコリアンは熱狂した。これは、スティーブ・ジョブズが2005年にiPhoneをテーブルに置いたのと同じ衝撃だった。
結局、MGMの買収は実現しなかったが、オヴィッツとハーバート・アレン(アレン社)は、ソニーによるコロンビア映画とトライスターの買収をまとめた。この取引で特筆すべきは、オヴィッツが「成功したらブルinks truck(現金輸送車)を家の前に横付けしてくれ」とだけ言い、具体的な報酬額を一切決めなかったことだ。彼は日本文化を徹底的に研究し、日本語、文化、芸術、接遇作法を学んだ。そして「前もって報酬を決めない」という戦略を取った。結果、彼はソニーから、そして後の松下電器によるMCA/ユニバーサル買収でも、巨額の報酬を得た。松下からは1億2000万ドルをコンサルタント料として受け取り、ワシントンのロビイストやPR会社に惜しみなく分配した。
ディズニーへの移籍と、その後の教訓
50歳を目前に、オヴィッツは「もうサービス業は嫌だ」と感じ始めていた。彼は公開企業の経営に5年間携わり、その後は公務員として国務省などで働くことを構想していた。親友であり、心臓発作を経験したマイケル・アイズナー(当時ディズニーCEO)の招きで、ディズニーへの移籍を決意する。ディズニーの取締役会からは「CAAで作った文化をディズニーにも作ってほしい」と要請された。
しかし、現実は異なった。オヴィッツは「私は心臓病の最大の治療薬だ」と皮肉る。彼が週7日、1日14時間働く一方、アイズナーは医者から週2日しか働くなと言われていた。ところがアイズナーは逆に働く時間を増やし始め、二人の間には緊張が生まれた。オヴィッツは「私は彼の仕事を欲しがっていなかった。ただ、自分なりの計画があっただけだ」と振り返る。結局、アイズナーはオヴィッツを脅威と感じ、あらゆる場面で彼を妨害した。2年後、オヴィッツはディズニーを去る。
もしユニバーサルに行っていたらどうなっていたか。オヴィッツは「うまくいったかもしれないが、ブロンフマン家が自由にやらせてくれたかどうか」と疑問を呈する。彼は自らを「ルー・ワッサーマンと同じで、ひどい社員だ」と評する。「私はフォロワーではない。上司に従うのが苦手だ」。この自己認識の欠如が、ディズニーでの失敗の一因だったと認めている。
シリコンバレーへの応用——マーク・アンドリーセンとの出会い
ディズニー退社後、オヴィッツは「ラッキーな男」と自称する。1999年、マーク・アンドリーセンとベン・ホロウィッツが彼をLoudcloud(後のOpsware)の取締役に迎えたのだ。オヴィッツは「彼らは私の命を救った」と語る。アンドリーセンとホロウィッツは、オヴィッツのスキルセットを全く新しい分野で活かす道を示した。
オヴィッツは「30年前と今日で、やっていることは何一つ変わっていない」と断言する。かつてダスティン・ホフマンが「女装して男の世界を女の目で見る」というアイデアを持ち込んだ時、彼は才能を集め、資金を調達し、マーケティングと収益化を支援した。今、彼は若いファウンダー(創業者)たちに対して同じことをしている。資金調達、人材のマッチング、戦略助言——すべては「パッケージング」の応用に過ぎない。
CAAの遺産は、シリコンバレーにも受け継がれている。アンドリーセンとホロウィッツがa16zを創業した際、彼らはCAAの「チーム制」と「パッケージング」の原則を参考にした。スタートアップを単体で売り込むのではなく、経営陣、技術、市場機会を「パッケージ」として提示する。これは、オヴィッツがハリウッドで確立した手法そのものである。
まとめ
このエピソードは、単なるハリウッドの成功物語ではない。それは、業界の常識を疑い、自らルールを書き換えることの重要性を教えてくれる。オヴィッツは、スタジオシステムという「買い手」の支配する世界で、タレントという「売り手」側に圧倒的な力を与えた。その手法——チーム制、情報システム、パッケージング、文化の先読み——は、30年を経てシリコンバレーで再現され、今日のベンチャーキャピタルの原型となった。オヴィッツの率直な自己批判(「私はひどい社員だ」)や、ルー・ワッサーマンへの複雑な感情(尊敬と批判の入り混じった)は、この物語に人間味と深みを与えている。彼が「ラッキーな男」と繰り返すのは、謙遜ではなく、チャンスを掴むための準備と人間関係の構築に人生を捧げてきた者の確信に聞こえる。
要点
- CAAは1975年、ウィリアム・モリスを離れた5人の若手エージェントによって創業され、ハリウッドのパワーバランスをタレント側に劇的に傾けた。
- 「パッケージング」戦略により、脚本、監督、主演俳優をすべてCAAが調達し、スタジオを単なる配給会社に格下げした。『ジュラシック・パーク』はその典型例で、出版前の原稿からスピルバーグを口説き、ユニバーサルと50:50の出資契約を結んだ。
- チーム制とバック・スリップシステムにより、クライアント離脱率は極めて低く、25年間で5〜6人しか失わなかった。1人のクライアントに複数のエージェントがチームで対応する方式は、業界の常識を覆した。
- コカ・コーラの広告アカウントを獲得し、7本分の予算で35本のコマーシャルを制作。シロクマのマスコットは25年以上にわたって使用された。この成功は、CAAが「文化の予測」を核としていたことに由来する。
- ソニーによるコロンビア映画買収、松下電器によるMCA/ユニバーサル買収では、投資銀行業務を自ら手掛け、成功報酬として巨額のフィーを得た。報酬額を事前に決めないという異例の手法が功を奏した。
- ディズニー移籍は失敗に終わったが、オヴィッツは自らを「ひどい社員」と認め、その教訓を率直に語る。その後、マーク・アンドリーセンとベン・ホロウィッツとの出会いが、彼に第三のキャリアをもたらした。
- CAAの原則——チーム制、パッケージング、文化の先読み——は、a16zをはじめとするシリコンバレーのベンチャーキャピタルに受け継がれ、今日のスタートアップエコシステムの基盤となっている。